代表紹介

橋本 真典

プロフィール

(揺籃期)

名古屋市立城北病院(現、西部医療センター)で生まれ死にかけるが奇跡的に生還する。奇跡は起きていない。生命力により生還した。 ディスレクシア(失読症、発達性読字障害)のため本や漫画は読めず音楽に執着した。 後に音楽が人生を展開させる歯車になっていた。 そろばん教室に通っていたが無駄と思い辞めて独学により受験に行き珠算日商3級合格。そんな人はいなかったが、 それ故にこの行動を優れた行動と考えその後も繰り返すことになった。 名古屋市立宮前小学校で5、6年で2年連続で算数の総合得点が1位で才能を開花させた。算数をきっかけに他の教科や体育まで評価され扱われ方がVIP待遇になった。 同級生からも一目置かれることになり、選挙で代表委員に選ばれ外交を任期まで務める。 6年運動会の器械体操で真ん中のピラミッドの一番上に立候補して、ケガしないことが絶対条件であり実演試験で10人のなかで一番バランスが安定していたため選ばれ落ちることなく務め上げる。 全校生徒1100人を超えるなか頂上での10秒間忘れることのない景色、天下を見せてもらった。 日本がバブル真っ只中、名古屋で世界デザイン博覧会が開催されパスポートで名古屋城会場30回、白鳥会場20回、名古屋港会場3回行って遊びまくることを覚える。 この同じところに行きまくる遊び方が遊ぶことの基準になり後にロングステイを繰り返すことになった。 クラスで一人だけテレビゲームを持っていないことすら勲章だった。 地元の中学の程度が低く荒れているため中学受験により尾張名古屋地区で学力3位、共学では1位の国立愛知教育大学附属名古屋中学校に合格。 小学校卒業式で卒業証書授与の順番が私は2番目で1番目の人はいろいろな儀式があるので拍手をもらうが、2番目以降は流れ作業となり拍手がないのが通例だったが、 私が卒業証書を受け取ったら拍手がおき、その後卒業生約200人全員拍手をもらうことになった。2番目の私が立派にやったから全員拍手をもらえたと讃えられ、こんなことは創立以降はじめてと伝説になった。 確かに慎重に厳かにやった記憶がある。飛ぶ鳥を落とす勢いだった。勢いというものをはじめて体感した。 中学では卓球部に入り卓球を始めると忘れもしない、先輩から「橋本、素質あるぞ」と脚光を浴び上級生が15人いるなかで1年3学期でトーナメント戦優勝、2年1学期で附中カップ初代チャンピオン、 トロフィーに名前が刻まれ部長に昇進。部員を統率、対外試合での挨拶、新入部員勧誘で実演、卓球自動練習マシンの導入、部長会に出席し予算の交渉などを任期まで務める。 卓球を研究して技術的な論文を初めて書き上げる。この頃は卓球が全てだった。 ほとんどの人が河合塾に通い優秀で積極的な人が多い学校で、自分が活躍できるフィールドを見つけ、そこで長になり主導権を持ち他と交渉する立場になったことは後になって思えば見事な展開であり、 その後の人生のお手本になった。他に将棋クラブでもトーナメント戦初代優勝し表彰状をもらう。 学校での授業を理解できたことはほとんどなく勉強は独学ですることになった。 この時より授業にでる意味はないと思うようになった。 レベルが高すぎて入学当初は落ちこぼれ地元に戻されそうになったが卓球部での躍進とともに巻き返しごぼう抜きをした。 本分とは別の活動で勢いをつけることで士気が上がり本分まで勢いがつくのである。 しかし、ここで人生を狂わす最大の問題が起きた。受験で集まった学力の高い中学で相対評価でついた内申書で公立高校を選ばなければならないという理不尽に直面した。 この学校の生徒の多くが不利になるにも関わらず、あれだけの大人がいてそんなことも分からないのかと今でも疑問である。 止む無く多くの人は回避策として私立の男子校の愛知高校に推薦で行くのであるがお金はかかるし魅力はなかった。 進路という教育で最も重要な問題に対して、みんなおかしいと思いながらも文句を言わずに従順に従っていたことに衝撃を受けていた。 これまで学んできたことと反していた。おかしくても大多数と同じ行動をとればいいとは一度も教わったことがない。学校教育では逆のことを教わってきた。 これまで叩き込まれてきたことを、突然ここで変えられない。まっすぐ生きていくつもりだった。 このときは受験勉強の最中だったため戦い損ねた。今なら学校でも教育委員会でも文部科学省でも殴り込みに行っている。人生で最も納得のできない出来事となり、精一杯戦わなかったことに悔いが残った。 その結果、今後理不尽なことがあったときはいつでも戦える準備が整った。 高校受験での成績は50点満点中47点と高得点をとった。 レベルの高い中学からそこそこの高校に行ったせいで高校1年で学年順位1位と10位以内の成績を10回保ち、医者になることを薦められるがで井の中の蛙になることを恐れ2年の始業式の直後「埋没を危惧」との理由を提出し退学し独学で大検取得。 既に勉強は独学でやるものと思っていたので学校に行く理由もたいしてなかった。 当時としては斬新な行動だった。10年中退者のいない高校だったが私が中退して以降何人かが中退した。 この頃はまだ大検によって大学に行くという一つの選択肢が世の中で認知される前であり不良でもないのに中退する先駆者として道を切り開くことになった。 その証拠に大検会場では私以外一クラス全員金髪でありこの時代に中退するとはボンクレのやることと決まっていた。 その後、人生では斬新なことをして先駆者になることに価値があると考えるようになった。 16才ディスレクシアが突然治り本がすらすら読めるようになっていた。 17才ギターを始めすぐに弾けるようになった。かねてよりやりたかった音楽に熱くなり音大ヘの進学を考えるが将来を現実的に考え断念した。 自宅から自転車で通える国立名古屋工業大学へ進学、卓球部顧問からスカウトですと入部を迫られたが、この頃は音楽にしか興味がなかった。 19才でピアノを習い始める。この年でピアノを習っても弾けないと考える既成概念の壁をぶち壊しに行った。 ギタリスト兼ピアニストで高校に行っていない分、音楽に打ち込む時間が多くあり私の演奏と音楽技術を天才だと言い出したヤツが弟子になった。 打ち込みによる作曲のためパソコンに興味を持ち、コード理論を学びシンセザイザーなど機材に60万円使う。 自分自身の感情を音として出力することができたらすごい技になると思っての試みをした。 (作った曲のページ) そして、音楽制作のなかで画期的とはなにか人の心をつかむとは何かをずっと悩みながら、創作に苦悩し続けた。 この時の創作活動が後の創作活動の原点になりいつでも振り返ることがある。 X JAPANのYOSHIKIからも誘われメジャーデビューして売れた名古屋を拠点にしていたバンドのサポートメンバーが作ったバンドから熱烈に加入を迫られ自宅近くに来るので打ち合わせなどしたが、 結局この時1人で活動することが自分のスタイルだと気づいてきた。 何かに打ち込んでいれば確実に得るものがあることが後に分かる。 学業では電器磁気学、電磁波工学と数式を扱うことが得意であり、難解な学問と書かれていた電器磁気学がそうでもなかったので、それらが受験科目にある大学院受験が可能だと考えるようになる。 自分が分からない場合は読んでいる本が悪い、相手の説明が悪いだけであるという発想が確立する。 社会勉強のためダイエー(2ケ月)→ナゴヤドーム(3ケ月その後随時)→ロッテリア(6ケ月)→大須第一アメ横マルゼンムセンでパソコンの販売員(1年)のアルバイト。 パソコンが世の中に登場し詳しくなろうと思い、店員をやったことでパソコンのハードウェアのことはほとんど分かった。後にハードウェアの限界まで使う仕事をすることになり店員と対等に交渉できるようになった。 普通の人はたいてい店員の押しに負ける。 特に何もせずに高等学校教諭一種免許状(工業)を貰えるが貰っても意味はなかった。

(覚醒期)

大学院進学を志し、午前中英語2時間、午後から電器磁気学、電磁波工学、電気回路、計算機基礎を合わせて4時間の過酷な受験で倍率1.5倍、 最後の半年は大学の図書館で暮らし7年分の過去問を分析し猛烈な受験勉強をした。 その結果、授業料全額免除かつ無利子の奨学金月84,000円の受給資格をとり国立名古屋工業大学大学院に進学。 電気情報工学専攻で、情報通信革命の時代と言われていたため学内で花形の情報通信分野の研究室へ所属する権利を受験の点数により獲得。 毎度毎度厳しい闘いをしてきたが今回は電磁波工学で点を稼いだことで勝った 大学院に入った直後は自分より頭の切れる人はいないということが直感的に分かった。 研究室では夜10時まで帰らせてくれないため時間を持て余した同僚と後輩にパソコンの使い方とプログラミング、Linuxを付きっ切りで教わる。 今日の自分があるのはこの二人のおかげである。 田坂研究室石橋研究室と所属研究室を移りながら、 通信ネットワークの研究で世界で1位とも言われることのあるスタンフォード大学が出したいい加減な論文を正し、 彼らより優れた手法を示して電子情報通信学会にて名古屋大学→早稲田大学→大阪大学でそれぞれ論文を発表する。 マサチューセッツ工科大学、カリフォルニア大学、オタワ大学からの論文をテリトリーにして分析し、 名古屋大学で論文発表直後、名古屋大学の助手からドクターを薦められ大学院博士後期の受験に至る。 中学受験→高校受験→大学受験→大学院博士前期受験→大学院博士後期受験とフルに受験をすることになり、 塾や予備校に行ったことはないが高額な授業料を払って行っている人たちと戦ってきた。ずっと勝負の世界に身を置き学生としてできる学問をやり切った。 塾に行くとはお金で試験に有利な情報を買うということだった。その情報を買えないのだから不利な状況でも勇敢に戦ってきたと後になってよく分かってきた。 しかし、大学院受験以降はそんなこと教える塾がないので誰もが独学しかなく、ここからが本当の勝負になり本領発揮した。 早稲田大学では全国大会であり画期的な研究だと評された。 大阪大学での学会発表で京都大学の教授と質疑応答に対応するなどしているうちに、 長年の勉強の成果なのか自分の能力がレベルの高い世界でも通用することを知り自信を持つことになり、 どのレベルのことなら一流の科学技術の世界で通用するかの感覚をつかんだ。 この感覚が後に新しいことを世の中に発表するときの指標となった。 自分の論文が学術雑誌ジャーナルに掲載されることになった。 私がやろうとすることに教授は毎度毎度「そんなことができるのか?」と言ってきた。どっちが難しいかを聞いてあえて難しい課題を選択していた。 志が高く持ち無難にこなして卒業しようという気はさらさらなかった。 電磁波工学の出来でかなりのインパクトを与えたこともあり、 後輩たちの就職説明会で「君たちの先輩にこんな優秀な人がいました」と私を紹介していたり、 私が読んでいる技術書を教授は私に習って自分で買って勉強していて「僕は君を評価している」と言い出した。自分が評判になり、また飛ぶ鳥を落とす勢がでていた。 周りがお前ならノーベル賞を取れる能力があるとまで言い出していた。 研究者として大学に残りゆくゆくは教授になろうかと考えたが、所詮は名工大。京大から教授に招かれるようでなければだめだと思った。 相変わらず井の中の蛙にならぬように心がけて生きていた。どれだけ評価されても所詮はたいしたことない。そこは井の中だと疑わなければならないと思っていた。 集団が間違った方向に行きやしないか、自分の中学の時の経験と太平洋戦争の反省を重ねて考えるようになっていた。 この頃世の中で自分の能力に観念し人の力でうまいこと生きようと考える人が想像していたよりはるかに多いことを気づき始めていた。 ここから問題が始まった。 ひとたび能力があると見込まれると、論文は必ず共著になるので教授たちは私の能力を使って自身の業績を上げようと考えだした。 人間は金や名誉に目がくらみ悪くなっていく様を目の当たりにした。 1ケ月前にDENSOの会社説明会を予約していたが3日前に教授が学会発表のリハーサルをするといいだし会社説明会にいったら卒業させんと言い出してきてキャンセルさせられた。 完全に攻撃すべきポイントができてしまった。中学を出てから待ちわびていた機会がついに来た。 教授の側近として働き、教授の業績を上げることに努めたが、 結果に誤りや不正、ねつ造があることが分かっていても、1つの研究を複数の論文に小出しにして論文の数を増やし業績を上げようとしていた。 教授と雇用契約を結んでいたが、予算がないと言いだし未だに賃金未払いのままである。 架空請求で学校からお金を引き出したりと教授の悪行を沢山知った。 教授という立場の人であっても自分の徳のため過去の発言を平気でなかったことにするなど、いかに汚い人間であるかを知った。 私は自分の信念を貫き、おかしいことには食って掛かり半年ほど大いに暴れてやった 主任や副学長と何度も対談した。 後に10人の教授が私の面倒を見るという特別措置を大学がとった。 腰抜け教授が自分に弁護士を付けてきた。その教授は逃げ切れるのか、私は逃げ切らすべきなのか迷った。将棋でいえばもう詰んでいた。久しぶりに将棋を指した。 民間企業への就職を考えDENSOの学校推薦枠を取得し会社に出向いたが、 末端の社員が金髪だったことや、交通費支給と書かれているのに払われないため喧嘩うってきた。 教授推薦によって東京電力、NECを薦められるものの断る。手の届くところに来てしまったものには魅力はなかった。 いづれにしろサラリーマンでは自分の能力を最大限に発揮できないと感じた。 たとえ大企業であってもかつての神童がサラリーマンになって会社が用意した作業着を着て帽子をかぶっていては情けなくつまらなくプライドが保てない。 特定の会社のみが私の能力の恩恵を受けることになってしまうことも問題だ。 どこの会社も良くなかったと説明し学校推薦を辞退した。 結局どこへ行っても能力を他人に利用され、主導権を他人に握られ振り回されることが分かった。 そして、自分の能力を最大限に発揮できる環境に身を置くことが最も重要なことであると分かった。 自分の能力を最も効率よく成果につなげ多くの人、 特に弱い立場の人の利益となることをしなければならない、胸を張って生きられる結果を出さなければならない。 自分自身も多くの利益を得て貧乏人から脱出しようとしていた。 最もベストな選択を時間ぎりぎりまで検討した。 自分主導で1人でやっていくしかないという結論に達した。 ずうっと熱く生きてきた。結局、卒業も就職もなくなり身分がなくなったのは2回目だ。 積み上げた学問と情熱だけが残った。 それ故に学問の本当の力を知ることがいよいよこれからできるのである。なんのコネもツテもないゆえに。 学んできたことは確かに私の中にあった。

(創生期)

大学院在籍中に研究の傍ら、依然音楽にも打ち込み60万円機材を買った店からもらったポスターを弟子に薦められヤフオクに売りに出したら60万になった。 使ったカネが全部帰ってくるというミラクルなことが起きた。 それをきっかけに発展させ月15万の安定収入が得られていた。 人から雇われてではなく自力で稼ぐことができるということを知ったことが起業へと向かわせた。 サラリーマンになるしかないという認識の社会で、自分で何かをやって収入にまでたどり着くという経験は貴重なものだった。 ネット通販の可能性を確信しネット通販業界への道を独自で進むことに決める。 ちょうどインターネットADSL常時接続サービスが都市から順に始まり、名古屋も早い段階で始まった。 それを利用して自宅サーバーを構築し世界からアクセスできる環境を自力で作った。 この頃、ネット通販といえば楽天だけだった。楽天の一人勝ちにより出店料も高いとき、 日本のネット通販の発展のため誰でも気軽にネットショップが持てるようなサービスの必要性を感じ「買場ショッピングモール」の開発、運営し、破格の値段で出店できるサービスを始める。 長年の受験戦争を終え闘争心を持て余しており、自分の能力なら楽天を相手に1人でも戦えると信じ、楽天会長を標的にしていた。 会社設立(資本金1円)により有限会社みらいネットサーブ代表取締役社長となる。従来有限会社の資本金は300万円必要だったが1円からできるようになった直後のことだった。 ネットの世界は技術だけでお金を一切使わなくても可能であり、私ができる唯一の道だった。 「買場ショッピングモール」でパソコンと携帯が連動したネットショップシステムを他社に先駆けて、おそらく日本初で提供を開始したことで、 中部経済新聞に顔写真入りで社長として大々的に掲載され話題を集める(下部に掲載)。 その直後、全国発売の雑誌に載せたい、無料ですとの連絡があり、許可をしたらオススメサイトのショッピング部門で第3位と評され掲載されていた(下部に掲載)。 発売日には書店とコンビニで発売されていることを自分も確認した。自分の作ったサイトが雑誌に載せてもらえるとは幸運だった。 「買場ショッピングモール」は好評となり、企業としての信用も高まっていき、私自身が起業家として認められ、どっかの起業家リストに載っていた。 東京の大手レンタルサーバー会社の社長があるシステムを作ってほしいと依頼があったので名古屋駅に呼んで打ち合わせをしたが契約書が相手に有利すぎるため断った。 IT社長のはしくれのはしくれになり、本物のIT社長と話し合ったいい経験となった。 それ以降仕事は請負ではなく自発的なサービス展開をしなければいけないと分かった。

(確立期)

セシールより商品リンクアフィリエイトで出店したいとの誘いがあり、 セシールが契約しているアフィリエイトASPリンクシェアと提携する。 バナー広告をブログやサイトに貼ることが主流のアフィリエイトでこのとき商品リンクを提供している企業はセシールとセコムの食だけであった。 ショッピングモールをやっているので商品リストがもっと多く欲しかった。 会社を設立し企業として実績を積んできたこと、また大学院でインターネットを研究し技術的にも専門家であることを前面に出して、 マルイ、ニッセン、ショップチャンネル、JAL、ANA、ジャパネットたかた、大丸、高島屋など大手企業と交渉に当たり、 商品リストを貰えることになった。各企業はそれで売れるのなら橋本さんの言うとおりにするという態度だった。 後に役職が上がったとの感謝の報告も受けた。 商品リンクのリストを持っているのがほとんど自分だけあり、 プログラミングをやるアフィリエイターなどおらずライバル不在で載せるだけで売れていた。月400万円ぐらい売り上げていた。 リンクシェアでトップクラスのアフィリエイターのみ入れるリンクシェアクラブに入れてもらい、座談会にもよく出席した。 トップの成績の人が月2000万円売っていて、私はその中では末端だった。 私も企業の人には「カリスマアフィリエイターの方です」、「トップの方です」と紹介されていた。 大阪での座談会でプログラミングをしない人でも商品リンクアフィリエイトで収入を得られるように、規約には違反しているものの、 ショッピングモールを丸ごと自分の収入源とできる特殊なシステムを持った「買場ショッピングモール2.0」の構想があり、 やってもいいかと問い合わせたら簡単に許可がおり製作し公開した。 六本木ヒルズや帝国ホテルでの立食パーティーに5年連続招待された。IT業界で知名度を上げていった。

(全盛期)

この頃になると高度な技術を使えるようになっていた。 これまでもそうだが発生する問題については朝目覚めた瞬間から考え始め、夜に意識がなくなく直前まで考えていた。 ただ頭の中で1時間考えると答えが分かることがしばしあった。考えるだけで解決することが快感だった。 考える時間さえあればいい方向展開できた。ただひたすら考える日々を送っていた。そして分かった。 商品リンクアフィリエイトの可能性を最大化するために販売網を拡大しインフラをフル稼働させると販売額も急激に拡大していった。 月収が100万円を超え沖縄のリゾートマンションを事務所としていた。 沖縄と名古屋を車で往復3回、フェリーで90万円も交通費に使ったが、半年で1000万円稼いでいた。 こうやって商品リンクアフィリエイトの有効性を立証することに成功した。 沖縄のホテルで食事をしているとき、日本で勝ったと思った。 100回壁にぶち当たってきたがその壁を何とかして突破してきた。どこまで突破できるかが実力の差となる。 長年の勉強は問題を解決する訓練になっていて一つの学問の成果だった。 「買場ショッピングモール2.0」もオープンから3年後、軌道に乗り安定した物流を生み、当方としても純利益が800万円に達していた。 「買場ショッピングモール2.0」がリンクシェア主催の開発コンテストに応募してくれと誘われ、 六本木ヒルズグランドハイアット東京によばれ銀賞受賞し表彰式にスクリーンで300人の前で紹介された。 リンクシェアのアメリカの親会社を楽天が買収したためライバルにしていた楽天会長も同席しており、私と正面で向かい合って3mの距離で乾杯することとなり眼飛ばしたった。 リンクシェア自身が作った規約に違反したシステムに賞を出すという異例の事態だった。商品リンクアフィリエイトを開拓した功績だと思う。 このときもこれまでもよく聞かれるのが「何人でやっているのですか?」だった。会社にしているのでそこそこの規模でやっていると見せかけることができている。 凄いと見せかけることが重要だった。1人でやってて新聞にあんなに大きく載るとは誰も思うはずがない。アイホンと対等に掲載されていますが、アイホンは1000人を超える会社です。 その時代に重要なことをやれば1人で1000人と対等に扱われた。そして楽天を相手に1人で戦うことも可能となった。

その後、リンクシェア以外のASPと提携のある各大手ECサイト運営企業へもアフィリエイトで全商品のリストを誰でも利用できるように公開するように働きかけ、 商品リンクアフィリエイトを日本独自で普及させることに貢献した。アメリカではこうはなっていない。楽天も出店費を下げたり商品情報を全て公開するに至り私の狙い通りに展開した。 その後、日本の全ての通販商品はアフィリエイトとして誰でも代わりに売って利益を得られる仕組みが定着していった。

こうして日本ではネット通販は流行らないと当初言われていたがアフィリエイト市場と共に拡大し続けたのだった。

3年ぐらい日本で上位のアフィリエイターであったため、 実績による高まった発言権によって各企業への商品リンクの公開の要望やその他のイレギュラーな要望も次々と認められていった。 私の要望は何でも認められるようだった。その勢いでこの世界を変えてやるとの意気込みでシステムを次々と発表した。 この時期に私のシステムによって約12億円の物流を生んでいた。アフィリエイト最高月間販売額6000万円、過去に1位の人を大きく上回った。 アフィリエイトでの収入は4500万円程度であるが、私は皆さんの儲けのおこぼれを貰っているにすぎない。 カネを稼ぐにはまず他人に儲けさせたり徳させたりしなければならないという重要な事実が分かった。 六本木では天才プログラマーなどと言われていた。 この時期も人生で5回目の飛ぶ鳥を落とす勢いとなっていた。

私のこれまでの行動は1つの理念をもとにしていた。誰でも安くネット通販を始められるように、誰でも収入をあげられるように、 企業の商品情報を誰でも活用できるようにというに、 つまり新しい物流システムであるネット通販から生まれる利益は商売していない人も含めて、なるべく多くの人のものでなければならないという理念に基づき活動したことで、 同調する人を得て動いてもらうことができ、思惑以上の展開が生まれた。 1人でやっていても、適切な理念によって他人に動いてもらう流れを作ることができた。 これは大学院時代にせっせと論文を作っていたのは卒業して路頭に迷いたくないためで、そこに縛られていただけであり、 教授に動かされていたけどそれは本当に人の心を動かしているわけではなく立場による権限で動かしているということに気づけたことによるものです。 さらに正義感を強く持つようになったことから、適切な理念を掲げることになった。

(衰退期)

開発したネット通販システムは世界のネット通販でも適用できるはずであると考え、世界進出への準備を進めていたものの、 スマホへの急激な移行など日本の市場の激変への対応に追われ世界進出はどうでもよくなっていた。 商品リンクアフィリエイトが普及し誰でも利用できるようになった結果、私のサイトの模倣が増えてしまった。 「買場ショッピングモール2.0」をさらに発展させた「買場ショッピングコミュニティ」もいくつかの賞をもらったが、 世の中をひっくり返しまくるほどの強い刺激がないと自分が満足できなくなっていた。 これまでの最高月収が200万円だったので300万円になることをしないと意味がないと思っていて、さらに新しいシステムを考案して公開していた。 半年でこのシステムの月収が60万円を超えてこのままいくかと思ったが、失速した。 これまで自分の収入を目的に仕事をしたことはなかった。それでは志が低く動機が弱くて面白くないからである。 また、楽天をライバルだと思って挑んできたが、楽天会長と会って以降ライバルを失って退屈していた 標的を誰にしたらいいか定まらず戦意喪失していた。 プログラミングによってシステムを作るということは作家のような芸術家のようなもので、同じようなものを作り続けることは苦痛だった。 常に新しくこれまでより画期的であっと驚くものでなければ世に出す価値も見いだせない。 そんななかでも改めて自分の能力は無限である、いくらでも斬新なシステムを創造することができることに気づいた。 いざとなるとアイデアが次から次へとでてきて疲弊していた自分を救った。このとき初めて自分を天才だと思った。

(バカンス期)

学生のときよりやっていたネットオークション物品販売は安定しており純利益は1500万円になっていた。 雇用契約によって他人に自分の人生の時間を差し出すことなく生きてきたことは誇りだった。 コネもツテもないところからカネも使わずに市営住宅の一室でプログラムを作って多くの人を巻き込んでいったことも誇りだった。 沖縄では名古屋ナンバーの車で回りに回り、沖縄本島のことはほとんど分かった。 名古屋に戻っても海の近くに住みたいと思うようになっていた。 インターネットの利点「インターネット回線があれば世界のどこにいても仕事ができる」というように、 インターネットは場所に依存しないことから、住みたい場所を選んで沖縄(1年)→内海→諏訪→湘南(4年)に住んだ。 夏は海の近くで3ケ月バカンスすることは恒例になっていた。 海外のコンドミニアムでのロングステイも計画していたが、テロの影響で頓挫した。 商品リンクアフィリエイトを活用してできるシステムをぼちぼち作っていた。

(再戦期)

日本のネット通販に平穏が訪れたかと思ったのもつかの間、黒船Amazonが安く送料無料で売るため強すぎる状況になってきた。 これでは特に小規模は淘汰されてしまう。日本のネット通販にとっても新たな危機が始まっていた。 Amazonを標的に再び私が戦場に繰り出すときが来た。 自分一人でもAmazonと戦えると信じていた。

つづく

日本のネット通販をオープンなものにしようと尽力を注ぎ、商品リンクアフィリエイトを切り開いた一人の男の物語である。

奨学金返済完了。
視力:いまだに1.5、血液型B型、しし座、へび年。 愛車VOXY TRANS-X。趣味はピアノ、水泳、バカンス、ロングステイ。

[主な受賞歴]

2005年 大丸おせち販売コンテスト全国2位
2006年 大丸おせち販売コンテスト全国3位
2009年 Yahoo!オークション主催のサイト制作コンテストで入選、大丸おせち販売コンテスト全国5位
2010年 LinkShare Awards 2009 BentBox 開発コンテストにて銀賞受賞(六本木ヒルズグランドハイアット東京)
2010年 楽天トラベル アプリ開発コンテストにて最優秀賞ノミネート
2010月 リンクシェアBentBox開発アプリコンテスト受賞
2013年 リンクシェア主催「ファッション特集 売上実績・成長コンテスト」にて「売上実績賞3位」を受賞

[居住地]

~2007年7月 名古屋市北区上飯田在住。
2007年7~9月、名古屋市北区尾上に在住。
2008年1~3月、沖縄県名護市為又に在住。
2008年3月~2009年3月、沖縄県本部町山川(沖縄ハウスリゾート、ココナッツハイツ)に在住
(生活の範囲:名護市、本部町、エメラルドビーチ、備瀬、今帰仁村、ウッパマビーチ、海洋博公園、美ら海水族館)。
2010年3~5月、名古屋市北区平安に在住。
2010年6月~、名古屋市北区喜惣治に在住。
2011年7~9月、愛知県南知多町内海(真栄リゾートリーブル内海)に在住
(生活の範囲:内海、千鳥ヶ浜、豊浜、河和)。
2013年7~8月、長野県諏訪市豊田に在住(生活の範囲:諏訪、岡谷)。
2013年8~9月、神奈川県茅ヶ崎市柳島に在住。
2013年11月~2014年2月、神奈川県茅ヶ崎市浜見平に在住。
2014年2月~2017年9月、神奈川県藤沢市辻堂西海岸(辻堂団地)に在住。
(生活の範囲:平塚、茅ヶ崎、サザンビーチ茅ヶ崎、辻堂駅周辺、辻堂海岸、辻堂海浜公園、辻堂ジャンボプール、鵠沼海岸、片瀬海岸東浜西浜、江の島、藤沢駅周辺、鎌倉、鶴岡八幡宮、横浜、横須賀)。
2017年9月~、名古屋市北区西味鋺に在住。
2018年10月~、愛知県豊川市に別宅営業所設置。
(生活の範囲:新城市、豊川市、豊橋市、ラグーナテンボス、吉良ワイキキビーチ)

[これまで住んだ家の数]

名古屋市北区:6戸
神奈川県藤沢市:2戸
神奈川県茅ヶ崎市:2戸
愛知県南知多町:1戸
愛知県豊川市:1戸
長野県諏訪市:1戸
沖縄県名護市:1戸
沖縄県本部町:1戸
計:15戸

欠陥住宅、手抜き工事、住宅の問題点、風水に詳しくなる。

メディア掲載

2004年10月11日 中部経済新聞 名古屋経済に「買場」が掲載される



2004年12月5日 ソフトバンク誌『iモード情報サイト2000 vol.25』 に掲載され、
「買場ショッピングモール」がオススメサイトのショッピング部門で第3位にランクインする。



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