代表紹介

橋本 真典

プロフィール

これは一人の伝説の男の功績を記録した物語である。

(揺籃期)

[小学生まで]
名古屋市立城北病院(現、西部医療センター)で生まれ死にかけるが奇跡的に生還する。奇跡は起きていない。生命力により生還した。 ディスレクシア(失読症、発達性読字障害)のため本を声に出して読めない。漫画も読めず音楽に対しては異様に感情が動いた。 幼稚園でクラスで最初にあやとびができるようになる。何かをマスターすることが人一倍早いことにこの時気づいた。このことを20年経っても同級生が人に言うほどのインパクトを与えていた。小2でクラスで一人だけ修行のため一年中半ズボン。 小3の担任は1年間授業を1回もまともにやらないで、授業参観では前の時間に全く同じことをやって答える人まで決めるという予行演習をしていた。ある日先生が「まさのりこれ焼却炉で燃やしてこい」とでっかいビニール袋を渡されたことがあった。 袋がでかいので焼却炉に入れるとき中身を取り出したら、クラスメイト全員の国語と算数の1学期2学期3学期の全てのドリルだった。 ドリルに一人一人の名前がマジックで書いてあるので指示に逆らってみんなに返そうかと迷ったが従って燃やした。指示に従わないと怒られると思ったからだ。 従うか逆らうかの選択を迫られた人生最初の出来事であり従ってしまった。 右手で持てる範囲で小分けにしてドリルを焼却炉に入れていた。 身近にいた女子の名前が書いてあるドリルを焼却炉に入れる瞬間にその子の顔が浮かんだ。書いた名前が燃え尽きるまで眺めていた。 本人に許可もなく燃やしたことに、とてつもなく悪いことをしている気になり一生の不覚となった。先生の指示に従ったのだから悪いことは何もしていないという理屈が自分の中で成立させられなかった。 その先生は後にクビになったが、この時からとんでもない奴が学校に先生をしていると考え、学校の先生の指示に対してまず疑ってかかる人間となった。そして今後おかしいと思ったことには従わないと決めた。 この考え方が壮絶な人生が始まる第一歩になったと思う。 小学1年から6年まで毎年はだしのゲンなど広島原爆に関係する悲惨な戦争の映画や舞台を見続けた。 反戦の意思を継がせようとして見せられたのだろう。おかまの映画評論家が「100本の映画を見たら100人の人生をやったのと同じ」と書いていた。 自分も戦争経験者、原爆被害者になったようだ。 小4、長い坂道を自転車でブレーキをかけずにいたらどうなるかやってみたら、ハンドルが急にぐらぐらして倒れ自分は空中に投げ出され回転して膝からついてケガをした。死ぬかと思った。 近くに運ばれ手当てされた。一生残るでかい傷が残った。これは子供のころに人はどのくらい無茶をしたら死ぬのかを把握する行為であり、この時生き延びた人のみ大人になれるという。 これで自分の行動で自分が死なないように無意識に活動できるようになるので私がこれからいくら無茶しているように見えても命に別状はないから安心なのである。 逆に言えば思う存分戦っても大丈夫な人間になった。 そろばん教室に通っていたがダラダラやってるだけだと思い辞めて独学により受験に行き珠算日商3級に合格した。そんな人はいなかったが、それ故にこの行動を優れた行動と考えた。 こうして反逆者は誕生した。 そしてこの時点から目立つところに立たされ栄光と苦悩を重ねながら戦い続けることとなった。 名古屋市立宮前小学校で5年の3学期の終わりに算数の1年間の総合得点が計算され1位だった。 先生も想定外でそれまではその他大勢の冴えない生徒として扱われていたが、認識を改められ優等生の扱いに変わり他の教科や体育まで評価され扱われ方がVIP待遇になったことがはっきり分かった。 突然庶民が皇族になったようなものだった。人が扱い方をこんなに変えることに驚いた。 5年3学期に初めて通知表で算数だけ5が付いた。貰った通知表を開けて5を見た瞬間は一生忘れることのできないものだった。光り輝く5だった。 喉から手が出るほど欲しかったものを手に入れた。この5がその後の人生で壮絶な戦いに何度も駆り出される印だとはこの時まだ気づいていない。 6年でも算数の総合得点は1位をキープし、算数、理科、社会が5になり優等生も板についていた。国語は本がまともに読めないので4だった。不思議なもので私も当たり前のように優等生のつもりで生きていた。 みんなから期待され、わずか一割しかない貴重な5を託された者としてこの5に恥じぬよう今後生きていくことを決意した。 同級生からも一目置かれることになり、選挙で代表委員に選ばれ代表として外交を任期まで務め、いい経験をした。立候補制ではなく多くのクラスメイトに橋本と名前を書いてもらったみたいだった。 責任というものを犇々と感じていった。もう一兵卒ではいられなくなったみたいだ。 6年運動会の器械体操で真ん中のピラミッドの一番上に立候補して、ケガしないことが絶対条件であり実演試験で10人のなかで一番バランスが安定していたため選ばれる。 おそらく優等生のため運動神経まで信頼されていた。 全校生徒1100人を超えるなか頂上での10秒間忘れることのない景色、天下を見た。落ちることなく務め上げた。 日本がバブル真っ只中、名古屋で世界デザイン博覧会が開催されパスポートで名古屋城会場30回、白鳥会場20回、名古屋港会場3回行って遊びまくった。 クラスで一人だけテレビゲームを持っていないことすら勲章だった。その後もテレビゲームは持たなかったので目が悪くならなかった。

好調だったがしかし致命的な問題を抱えていた。時は80年代の終わりヤンキーやスケバンが全盛期の頃のこと、小学生にもその影響がきていた。 小学校から遠足に行くと他校の遠足に来ている生徒を相手に必ず集団で喧嘩が始まる。「タイマンじゃごらー」うちのリーダー格が吠えたら開戦の合図だ。 縄張り争いみたいなものだがうちは名古屋で2番目のマンモス校であり学力は名古屋で下から2番目で、強い奴も多いので負けたことがない。 この世界には役職がありリーダー格の奴が「お前は今日から王子だ」と私には王子の称号を与えた。向こうの王子はもっと強いぞおまえも強くなれと言われた。 そのリーダー格の子と一時期気が合い毎日コンビのようにつるんでいた。 暴力団の子供と学校に委員会で同じになりこの子ともなぜか気が合い友達になり街中をリヤカーで駆け巡りよく遊んだ。刑務所からでたばかりで授業参観に来ていてヤクザなのに優しいと評判だった。 親の立場は子供には関係なく友情が芽生えていった。断ておくと私はヤクザと関わっているわけではない。 地元の中学は名古屋でその名を言うと恐れられ、強い奴の扱いをされるほどで越境入学で他校へ逃げる人もいた。 中学に行けばさらに旧えた・ひにん部落を含む小学校の人と合流することになる。 その中学では補導される人も多く修学旅行で東京に行くと必ず捕まる。あいつが鑑別所に行ったなんて情報も入ってくる。暴れる奴がいるので学級崩壊しているという噂もあった。この街にいたら人生は終わりだと思った。 かといって越境入学や私立に行く予算はない。人生でカネに困ったことはないのだが、やみくもにカネを使うことはよくないと思っていたのだ。そこで国立の中学なら行けることになったので受験することにした。 塾にも行かず尾張名古屋地区で学力3位、共学では1位の国立愛知教育大学附属名古屋中学校を受験して合格した。 学校でヒーローになり、担任が職員室で「橋本が受かりまして」と発表して教師として評価された。当然VIP待遇が続いた。英雄として残りの小学校生活を送った。この立場になるともう喧嘩の強い奴らも寄ってこなくなった。 初陣をあっけなく勝利してしまったことが苦労の始まりになることをこの時はまだ知らずにいた。 小学校卒業式で卒業証書授与の順番が2番目で1番目の人はいろいろな儀式があるので拍手をもらうが、2番目以降は流れ作業となり拍手がないのが通例だったが、 私が卒業証書を受け取ったら拍手がおき、その後卒業生約200人全員拍手をもらうことになった。2番目の私が立派にやったから全員拍手をもらえたと讃えられ、こんなことは創立以降はじめてと伝説になった。 確かに慎重に厳かにやった記憶がある。飛ぶ鳥を落とす勢いだった。勢いというものをはじめて体感した。

[中学生]
中学では卓球部に入り卓球を始めると忘れもしない、先輩から「橋本、素質あるぞ」と脚光を浴び卓球に明け暮れ1年3学期で上級生が15人いるなかでトーナメント戦で優勝し凄いと讃えられた。 2年1学期で附中カップ初代チャンピオン、トロフィーに名前が刻まれ部長に昇進。部員を統率、対外試合での挨拶、新入部員勧誘で実演、卓球自動練習マシンの導入、部長会に出席し予算の交渉などを任期まで務める。 卓球部以外の人がたまたま私の卓球を見てそのスピードに「凄い」と目を丸くしていた。卓球をすると人にインパクトを与えることができると知った。 卓球を研究して技術的な論文を初めて書き上げる。この頃は卓球が全てだった。将来は卓球選手になることを本気で考えた。 スポーツは自分がやるから楽しいのであり、プロスポーツなど人がやっているスポーツを見てもほとんど感情の動かない人間になった。 入学時に前の席の人は京大医学部教授の子供で、同じクラスにノーベル賞受賞者の研究室に所属していた人の子供や模擬試験で全国1位の人、医者や大学教授の子供ぐらいは当たり前の学校で1学年約160人。 ほとんどの人が河合塾に通い優秀で積極的な人が多いなかで、自分が活躍できるフィールドを見つけ、 そこで名を上げ主導権を持ち部長さんと呼ばれ他と交渉する立場になったことは後になって思えば見事な成り上がりで、 その後の人生のお手本になった。他に将棋クラブでもトーナメント戦初代優勝し表彰状をもらう。レベルの高い学校でも秀でるものが二つもできた。

一方、授業では教科書を開くことが一度もなく実験的な授業ばかりで、一般的な授業が行われておらず学校で中学生の基礎学力が身につくいことはないので勉強は独学ですることになった。 みんな河合塾で学力を付けているようだった。入学時に河合塾に入っていない人はみんなが河合塾に行っていることを知り焦って入塾していた。人と同じ行動をとらないと親も不安なようだ。 私はそんな予算は持ち合わせていないし、河合塾に行かないとやっていけないバカげた世界に屈服する気はなかった。 みんな土日は河合塾のため年中無休みたいでご苦労なこった。 先生もそのつもりで河合塾で既に学んでいることをやってもしょうがないので普通の授業をしないのだと私は思う。私はこの学校を河合塾の下請けかと批判しからかってやった。 教科書を一度も開かないとなると塾に行っていない生徒はどうすればいいのか国立の義務教育機関として説明責任があると思う。 文部省が作ったメニューを無視した授業で許されるのかと思ったので文句を言ってやった。全員がそうではないがこの学校の教師になれた先生はエリート意識が強い人も多く厄介だ。 自分の授業が最高だと思ってやまない。 学校が勉強に役に立たないので勉強するのに2倍の時間がかかり非効率だった。こんな面倒くさい学校だとは知らんかった。 私は先生にいろいろと文句を言っていたので受けが悪くなり、試験の点の割には内申書にが低いと同級生によく言われた。文句の多い人間として名を売っていた。 このレベルの学校だと学校に何か寄付してポイントを稼ぎ、少しでも子供の有利になるようにしようとする親もいるのだ。 裕福は家庭が多くそれが社会で生きる道だと思っている親がいる。私は賄賂ではないかと批判した。 親のお金の有無が子供の成績にまで影響することは無論反対である。私が戦わなければならない相手は一体どれだけいるのだろうと思った。 私は地元を代表してこの学校に来ているのだ。公正に内申書が付けられているとは思えなかった。逆にうちの親が英語の先生と親しくなったら3が4になったことからしても印象で内申書が変わる。 結局、賄賂が通用すると思われる。中学生の段階でこんな問題の中にいた。公立の学校としてきっぱり宣言しなくてはいけないと今思う。そして後で詳しく記述するが、この内申書で人生が決められてくる世界である。 みんなと同じようにうまいことやらないから悪いと指摘も当然あるし私もよく考えた。よく考えると結局うまいことやるとは真の実力をつけることでありカネにものを言わすことではないという信念を曲げることはできなかった。 近々はみんなが言うようにうまいことやった方が得策のように見えるのだが、将来的にみると私の考えが正しかったことが証明される。証明することが私の役割だと思った。 この学校は試験は期末試験のみで中間試験も学年順位もなく自主を尊重した自由を売りにした校風だった。 入学当初はまともな授業もなしに期末試験だけ受けさせられ必然的に落ちこぼれ通知表に1が4つ並んだ。担任に「ここでは通用しないのではないか」と地元に戻されそうになるぐらい厳しい境遇に立たされたこともあったが卓球部での躍進とともに形勢を巻き返した。 本分とは別の活動で勢いをつけることで士気が上がり本分まで勢いがつくのである。 1年の夏休みに、ここで戦うしかない、ここで生きるしかないと誓った。完全に戦いだった。 カネに物言わせている河合塾ヤローたちと勝負しなければならない。もともと勉強のできる奴がカネ使っているのだから勝つのは簡単ではないがここで諦めることはできん。地元の代表、貧乏人の代表なのだから。 そして、最終的に通知表でオール3ないと公立高校を受けさせてもらえず脱落していく人が多い中でよく生き残った いつの間にかに理不尽な戦場に放り込まれていた。サバイバルゲームはこの時から始まった。 私はすべてのおかしいと思われる問題に対して従うのではない逆らい続けた。自分の生きざまはもう決まっていた。

人生を狂わす最大の問題がある。受験で集まった学力の高い中学で相対評価でついた内申書で公立高校を選ばなければならないという理不尽な制度に直面した。 この学校の生徒の多くが不利になるにも関わらず、あれだけの大人がいてそんなことも分からないのかと今でも疑問である。 クソヤローの集まりだから仕方がない。 止む無く多くの人は回避策として私立の男子校の愛知高校に推薦で行くかであるがレベルは低くお金はかかるし魅力はない。 名古屋という都市にいながら公立高校がいっぱいあるのに受けさせてもらえず、みんな仕方なく愛知高校に行く感じだった。先に登場した卓球部の先輩も愛知高校に行って一橋大学に行った。 本来なら旭丘高校ぐらいいける能力があるのに。 さらに愛知高校も無理となると愛知教育大学附属高校が面接だけで採ってくれる。しかし厄介なことに愛知教育大学付属中学は名古屋と岡崎に2つあり附属高校は刈谷に1つしかない。 私の家から高校はめっちゃ遠く現実的ではないので考えたこともない。実際に附属高校に行く人は少数だ。 ほとんどの人が自分の学力に合った高校に行けない中学だった。 さらに進路という教育で最も重要な問題に対して、みんなおかしいと思いながらも文句を言わずに従順に従っていたことに衝撃を受けていた。 推薦なので早い時期に決まり、その人に「決まって良かったね」なんて声を掛ければ「よくねーわ」と帰ってくる。 だったらなんでもっと文句を言わないんだと思った。 入学時にそんな説明はされていない。知ってたらもっと吟味したので人生は変わっていた。 おかしくても大多数と同じ行動をとればいいとは一度も教わったことがない。これまで学んできた道徳感に反していた。 このときは受験勉強の最中だったため戦い損ねた。今なら学校でも教育委員会でも文部科学省でも殴り込みに行っている。人生で最も納得のできない出来事となり、精一杯戦わなかったことに悔いが残った。 その結果、今後理不尽なことがあったときはいつでも戦える準備が整った。 高校受験での成績は50点満点中47点と高得点をとり学業の成績としては勝っている。 内申点さえそれなりにあれば一番レベルの高いクラスの高校でも受かる点数だった。 納得できる理由が見つからないからこのことを人生でずっと引きずることになった。

[高校生]
レベルの高い中学からそこそこの高校に行ったせいで高校1年で学年順位が388人中1位と10位以内の成績を7回保った。 入学式には既にセンター試験のことを考えていた。 偶然にもこの学校で「橋本」という名前で近年で過去に2人もずば抜けて優秀だった人がいたという。 そこへ私が入ってこの成績だとその橋本さんたちの再来と思われ、またどんな凄い奴が来たかと学校で噂になっていることが私の耳にまで届いていた。 廊下ですれ違う知らない先生まで頭を下げてこられた。 日々スーパースターをやり続けるのも楽じゃなくなった。 医者になることを薦められこのままでは井の中の蛙になると分かった。 この高校を井の中だとわかる人はレベルの高い外の世界を知っている自分だけと思った。 勉強しない生徒を前提にしているので無駄に厳しく、低いレベルに付き合わさせられた。 自由な校風の中学とは真逆で雁字搦めの高校生活だった。 中学が独自の校風を掲げても行った高校が全く違ったら、そのギャップに必要以上に苦労することになるのである。 中学では自主に任されていたことが、高校では規則的に決められている。 日本の学校教育は中学から高校への連携がされておらず一貫性がない状況で一体どうしてこんなに生徒を振り回すのか、やはり来た高校を間違えたのだと思った。 また、高校入学当時、電車に通学しようとすると尾関学園という超程度の低い高校と方角が同じなのでそこの生徒と同乗することになった。高校に入るときに、そこまで想定できていなかったことは本当に私が甘かった。もともと高校の選択史があまりないため、ここまで気が回らなかった。 それはまだ4月、地元の駅でのことだった。まだ発車する前でドアが開いていたとき、 尾関学園の生徒が私が座ている座席のガラスにパンチした。直径50cm程のクモの巣状に割れたが飛び散らなかったのでケガはなかった。襲撃を受けた。電車はそのまま発信して車掌が来て私をにらんだ。私を関係者とみたようだ。 パンチは私に向かってきたのでかつて自分らが半殺しにした相手かと脳裏をよぎった。パンチをした生徒は逃げたので顔を見れなかった。私は人を半殺しにしたことはないが、かつての仲間が何人やってきたかわからないのだ。 だから私もどこで狙われているか変わらないのだ。ここは悪評高き私の地元だ。私は中学以降ヤクザの子供や強い奴らとはもう関わっていないので仲間もいない。 奇襲攻撃を仕掛けてくる奴はだいたいヘタレだ。何するかわからんスゲー怖い奴と思わせておかなければいけない。一瞬で脅しを利かせ相手をビビらせる必要がある。大物はすぐに向かってこない私と仲良くする道を選んでくる。 しかし3年間おぼっちゃん中学で違う戦いに専念していたのでこの世界で生きる方法をもう忘れていた。しかも高校生にもなると対格差がものをいうので何とかなるとは限らない。本気でやられたらたぶん死ぬ。 このまま電車で通ったらいつか殺されると思ったので、片道5km、川を二つ超え30分自転車通学に変えた。 大した高校でもないのに命がけで電車で行くか、苦労して自転車で行くかしなければならない。これも高校生活の寿命を縮める要因の一つになった。 2年の始業式の直後「埋没を危惧」との理由を提出し退学。 この時期になったのは1年を終えていると大検が3科目免除になるからだ。 将来有望なだけに教頭や学年主任に引き止められたが円満に納得させた。 既に勉強は独学でやるものと思っていたので学校に行く理由もたいしてなかった。 すると10年中退者のいない高校だったが私が中退して以降何人かが中退した。私はカリスマ性がでていたので後追い退学が起こってしまった。 私が学年で2番の時10番ぐらいの女子も中退した。あこがれられていたことはだいたいわかっていた。 成績優秀な人間が辞めると、辞めるということがやってもいいこととなり辞めたいと思っている人に後押しをしていた。 そのせいで苦労したのか助かったのかはわからないが自分の行動が人の人生を左右するほど影響力があることを知るのだった。 最近でも夏休みの最後の日に自殺する学生がいるらしいが、学校なんかさっさとやめりゃあいい。人それぞれいろんな事情があるのだから。 そして独学で大検を取りに会場の名古屋西高校に自転車で行った。 この頃はまだ大検によって大学に行くという一つの選択肢が世の中で認知される前であり不良でもないのに中退する先駆者のようなもので当時としては斬新な行動だった。 大検会場では私以外一クラス約40人全員金髪でありこの時代に中退するとはボンクレのやることと決まっていた。金髪ってそういうものだと分かった。 その後、人生では斬新なことをして先駆者になることに価値があるという考え方が確立した。 16才ディスレクシアが突然治り本がすらすら読めるようになってビビッた。 17才アコースティックギターを始め弾き語り程度ならすぐに弾けるようになった。時間に余裕ができたことで、かねてよりやりたかった音楽に熱くなり音大ヘの進学を考えるが将来を現実的に考え断念した。 それにしても自分の家ほど安全なところはなかった。外に出たら七人の敵がいると言うがその程度ではない。家にこもり大学受験の勉強を独学でしていた。

家庭の経済事情により家から通える国立大学にしか行けないことになった。 だが、特に名古屋に魅力のあるの私立大学はないし、東京までわざわざ行こうとも思わなかったので別に良かった。 私立を一校も受けず受験料3万円も無駄することなく、 受かったら滑り止めとしてキープするために30万円近く払うこともなく、自宅から自転車で30分で通える国立名古屋工業大学へ進学。 周知の通り国立より私立の入試が先にあり、国立が受かれば通常国立に行くが、私立が受かれば国立が落ちた時の保険として行けるようにしておくのに当時30万円払う必要があった。 学問の教育機関である大学という名で保険業務をやっている実態に非常にふざけていると思った。 国立大学の合否の前にあえて締め切りを設けているのだ。カネの稼ぎ方が汚いとしか思えん。今の知識で言えばこの金の稼ぎ方だと地獄に落ちる。 私立大学が立派の校舎を建てたり都心に引っ越したりできるのは入学しない生徒からもカネを巻き上げられるためだと分かった。 私は人の弱みに付け込む卑怯な金儲けに屈服しなかったことを誇りに思っている。どれだけ金持ちだったとしても私立大学にくれてやるカネなど一銭もねえ。 しかし、おそらく多くの人は生き残るために屈服する。そして多額のカネを取られても自分の選択は間違っているとは思いたくないから、そういうものだと無理にでも納得し正当化するのである。 これがおかしいことにも平気で従える腑抜けな人間が出来上がっていく過程になっていることを私は後に気づいた。 国立大学に来ている生徒のほとんどの人は行きもしない私立大学に多額のカネを払ってきているのだった。国立大学の学生を立派と呼ぶのはとんでもない。 ここで屈服する人間は確実に将来何度でも屈服することになる。一人の人間は弱い、そこを突かれていじめられているのと同じだ。たとえ一人でも強く毅然とした態度で社会と接しなければだめだと思った。 私の戦いは続いた。

[大学生]
名工大では卓球部顧問からスカウトですと入部を迫られたが、この頃は音楽にしか興味がなかった。 19才でピアノを習い始める。この年でピアノを習っても弾けないと考える既成概念の壁をぶち壊しに行った。随分後になるが大体の曲は聞けばコードを判別してギター、ピアノで合わせられるようになった。ショパン幻想即興曲なども弾いた。 ギタリスト兼ピアニストで高校に行っていない分、音楽に打ち込む時間が多くあり私の演奏と音楽技術を天才だと言い出したヤツが弟子になった。 打ち込みによる作曲のためパソコンに興味を持ち、コード理論を学びシンセザイザーなど機材に60万円使う。 自分自身の感情を音として出力することができたらすごい技になると思っての試みをした。 (作った曲のページ) そして、音楽制作のなかで画期的とはなにか人の心をつかむとは何かをずっと悩みながら、創作に苦悩し続けた。必要に迫られドラムを習いに行ったこともある。 この時の創作活動が後の創作活動の原点になりいつでも振り返ることがある。 制作した曲をコンテストなどに投稿したり、ライブハウスに誘われたりと活動を始めていた。 X JAPANのYOSHIKIが名古屋に来て黒夢を自身のレコード会社からインディーズデビューさせようとしていた頃の黒夢のサポートメンバーが作ったバンドから熱烈に加入を迫られ自宅近くに来るので弟子を引き連れて打ち合わせなどしたが、 人種が違いすぎて付き合えない。結局この時から1人で活動することが自分のスタイルだと気づいてきた。 何かに打ち込んでいれば確実に得るものがあった。 二十歳を過ぎたが酒、たばこ、ギャンブルの全てをくだらないとしか思わなかった。そしてこれらはその後の人生で眼中に入ったこともない。パチンコを一度もしたことがない。

社会勉強のためダイエー(2ケ月)→ナゴヤドーム(3ケ月その後随時)→ロッテリア(6ケ月)→大須第一アメ横マルゼンムセンでパソコンの販売員(1年)のアルバイト。 パソコンが世の中に普及し始め詳しくなろうと思い、店員をやったことでパソコンのハードウェアのことはほとんど分かった。後にハードウェアの限界まで使う仕事をすることになり店員と対等に交渉できるようになった。 普通の人はたいてい店員の押しに負ける。 特に何もせずに高等学校教諭一種免許状(工業)を貰えたが貰っても意味はなかった。未来を切り開くのに資格などいらない、資格を管理している団体にカネを払うようでは情けない、天下りを助長するようなものだという考え方が確立した。 そして雇われるのではなく自力てカネを稼ごうと「Walk in Japan」を制作しレンタルサーバーでオープン。儲からなかったが後にgoogleが「google earth」として私と全く同じサービスを始めた。 ねらい目は間違っていなかった。これは私がウェブサービスを始めた最初の出来事である。

学業について、まずこの学校は半数が現役で卒業できないという現実を知る。 卒業する生徒のクオリティーを維持するためだといわれているが、毎年変わらずうまいこと半数しか現役で卒業させていない。このやり方は胡散臭い。 だったら採らなければいいのにとも思う。路頭に迷わす人を必ず作っているのた。 当時、日本の大学で留年率は1位2位を争っているそうだ。 教員が多数いるのにみんなこの方針に納得しているやっているのだろうか不思議である。 こんな特殊な方針に全員が納得しているとしたら不気味だ。心をこの大学に売ったのだろうか。 上述したように中学の教員たちを全員不気味だと思ったが、ここの教員も全員不気味だ。 留年したら一生「留年しちゃって」なんて言わなければならなという不名誉な汚点を一生背負わすことになると分かっているのだろうか。 人の人生というものを一体どう考えているのか。若いのだから苦労させるのはいいが道を外させてはいけないと思う。 入学前に卒業するのがこんなに過酷とはインターネットのない当時ではみんな知らない。 留年を繰り返し力尽きていく人もいるし、早々諦めて退学するものも多い。1単位足りなくても半年留年で半年分の学費は必要となる。ぼったくりに合うようなものだ。 卒業するためには50回ぐらい試験を受けて受からなければならない。そういえばあの人いなくなったなんて話をする。戦友が次々に戦死していく様をこっちは見ることになる。 身近に4年留年している人も2人いた。4年留年すると実質的な学歴は専門学校卒に落ちる。つまり専門学校卒が行くような会社にしか就職できなくなる。 留年の数が増える度に就職のとき学歴の効力は落ちてゆくのだった。せっかくこの大学に入ってもそこで頑張らないと大学受験で頑張った効力が減っていくシステムだ。 入学時に先輩だった人が後輩になったりもする。文系の人が言うようにレポートの提出で単位がとれるような淡い夢を見る人もいるが、そんな科目は一科目もなく、すべて難しい試験を受けさせられる。 ある授業で先生が「今日来ている人ラッキーですねーここ試験に出ます」と全15回の授業の中で4回言ったことがある。助かったと思いそこを勉強して試験に挑んだが1つも出ていない。 試験中、先生の顔を見るとケラケラ笑ってやがる。やりやがったなコノヤロー、後ろから刺されるぞと思った。 違法性があるかもしれないがおそらく抜け道もあるのだろう。 こんな感じで、はめられたりしながら落とされまくり単位が足りなくて留年していく。 そんななか、入学初期のころプログラミングの宿題と発表があり、どうにも分からなくて困ったという人がいた。 私は親切心だけで彼のために授業がすべて終わったあと教室に残って1時間、回答をあげて一つ一つ説明して教えてあげた。プログラムは作るため人によって当然違ってくるので、彼の分も私のものと違うものを作ってあげた。 すると彼は助かったと感じたのだろう、その後3年間すべての授業の試験の過去問をどこからか入手してきてコピーして「過去問が入手できましたで」と言って私のところへ持ってきてくれた。 半数が戦死する学校なので私は命の恩人とも言えるのだろう。我々は戦時中同然だったので勉強の手助けをするとは人の命を救うことになるのだった。こんなことでも人の命を救うことができるのだと知った。 鶴の恩返しを受けた。見返りなど求めずに困っている人がいたら親切にするものだと学んだ。人生観を変える出来事だった。私は非常にうまいことやった。 緊迫した状況に置かれて初めて何かが生まれたのだと思う。ぬくぬくとした生活の中では何も生まれないのだろう。しんどいと人は成長するのか。 彼のおかげで私はスムーズに卒業のための単位をとれて大学院受験勉強の時間を確保できた。卒業のための単位取得で手一杯になると当然大学院受験勉強の時間は減るので不利になる。 電器磁気学、電磁波工学と数式を扱うことが得意であり、難解な学問と書かれていた電器磁気学がそうでもなかったので、それらが受験科目にある大学院受験が可能だと考えるようになっていた。 自分が分からない場合は読んでいる本が悪いという発想が確立し、分かるように説明してある本を探せばいいことが分かった。 学業の調子が良くなっていて、3年からは授業料全額免除になった。しかし学校をいい学校だとは思っていない。 もう少し話を付け加えると、入学年度の1月には廊下で人がうなだれているむごたらしい現場に遭遇する。先生が説明するには、学校推薦で内定を取っているのに2単位足りなくて卒業できなくなる人がだと言う。 ぽろぽろ泣きやがるんだうっとしいと。そしてこれから卒業できませんでしたと先生とその生徒で企業に謝りに行くのだという。 俺たちもこうなるかと恐怖を覚えた。後で考えたら頑張って勉強しないとこうなるという見せしめなんだ。この学校では生徒に勉強をさせるため見せしにされる生徒が必要みたいだ。 通常の試験でも監視委員が2人いる場合があり、カンニングをやったのがばれてその場で退学になり力ずくで追い出される。先生がカンニングをするとこうなりますと説明した。これも見せしめなんだ。 この学校に情けはない。試験を受からなければ絶対に単位はでない。当然おまけもない。廊下で「落第生の追試だ」と騒ぎながら追試をやってくれる先生はお釈迦さまだ。地獄に蜘蛛の糸を垂らす。 その教室をのぞいて見ると満員御礼で座席がなく立っている人までいた。1つ上の先輩、2つ上の先輩がいるせいだ。おそらく床で試験を受けるのだろう。そうでないと字が書けない。どんだけ落第生がいるんだと思った。 追試を受けた知り合いはまた落ちたとさ。追試だから簡単になるわけではない。そしてまた来年同じ科目の本試を受け追試を受け、そしてまた来年と。蜘蛛の糸はすぐ切れる。いつまでもここにおらずに考えたほうがいいぞと先生はアドバイスする。 追試をしてくれない先生のほうが多い。私も10年たっても単位が足りない夢を見てうなされて起きる。精神疾患やトラウマを患わないように大学を生き抜かなければならない。 京大でも4年留年して追い出されノイローゼになった人と会ったこともある。これから大学に行く人は留年率を調べ勇敢に生きてほしい。

(覚醒期)

大学院進学を志し、午前中英語2時間、午後から電器磁気学、電磁波工学、電気回路、計算機基礎を合わせて4時間の過酷な受験、定員138人。既に38人は推薦で決まっているので受かるのは100人。 160人が試験を受けて60人が落ちる。この年は定員を超えて採ることはしなかった。名を上げようと他大学からも集まっていた。 2年前、国立大学理系の大学院の定員は10人程度だったが突然、文部科学省の政策で定員138人になった。よって社会では大卒では高卒レベルの扱いしかされなく、大学院を出てはじめて従来の大卒レベルの扱いをされるようになった。 よって大学院に行かねばならなくなった。大学院というポストが大きく開かれてしまった以上、大卒で終われば大学院卒の人より格下になることは間違いない。 どんな立派な中学に行ってようが、どんな立派な高校に行ってようが、どんな立派な大学に行ってようが、所詮は通過点に過ぎなかったことをこの時知らされる。 突然のことで日本では長年、大卒という言葉を使ってきたので、大学院卒がその立場に変わったことを認識できていない人も多い。 企業は大学院卒を優先で採用するという事実も間違いない。 大卒では大学院卒が採った後の残り物しかない。 レベルの低い大学に行っている人にとっては願ってもないチャンスの到来だ。 レベルの高い大学に入れた人はまた本格的な受験をしなくてはならず想定外であろう。大学受験にエネルギーを使いすぎてしまった人は精神的にもう持たない。 そして大学院受験を面倒見る予備校はない。 受験までの半年は大学の図書館で暮らし7年分の過去問を分析し猛烈な受験勉強をした。 そして人生を賭けてやらなければならないもう一つの理由があった。受験は8月末にあり就職試験は3月から始まっているが通常理系の場合は学校推薦で内定をもらうことになり、 受かったら必ず入社しなければならないとの条件が付く。従って受験までは内定を取れない。 受験に落ちた場合は9月から就職試験を受けに行くことになり半年も出遅れる。既にいい会社の学校推薦枠は大学院生に取られている。 それでもこのまま路頭に迷うわけには行かないので、受験に落ちたショックと共にふてくされながら人知れずどこでもいいから会社を選ぶという恐ろしく惨めな人生になるのである。 受験に受かった場合と落ちた場合での格差がものすごく大きい。 勝者としての人生を歩むか敗者としての人生を歩むかがこの勝負で決まる。一生のだいたいのレベルがこの時点で決まるといっても過言ではない。 この勝負で負けたら敗北者の人生を歩むことが決まる。落ちたら自尊心を失う。 そんな気持ちで社会で活躍できるはずがない。世の中を変えるいい仕事ができるはずがない。 落ちたら細々と生きていくだけだ。落ちたら人生は崩壊だ。 大学院を受験するとはこんなに大きなリスクを持たなければならないが受けなければ実質高卒扱い。 だから死んでも受からなければならない。 死ぬ覚悟で受験した。この時、特攻隊兵の気分だと周りに言い放っていた。 そもそも大学を現役で卒業できるのは半数だった。厳しい試験でふるいに掛けられた生き残りが大学院受験をする。 留年した人は観念していて、たいてい大学院は受けないが現役で卒業できる人はほぼ全員大学院を受験してくる。大学院を出ないと一流の世界には顔を出せないで一生終わる。 一流の中学に行っていたのでそれが分かる。 一世一代の大勝負をしなければならないのだ。人生とプライドと命を賭けて。 なぜか推薦を取れなかったからと言って全くねたむ気持ちもうらやましく思う気持ちもなかった。 崖っぷちに立たされていても正々堂々と頑張って受験に勝てばいいんだ考えていた。当時の自分は今とは比べ物にならないほど立派に生きていた。 もう一度この時の立派な自分に戻りたいとその後何度も思った。 そして後に思う。大勝負の機会があったことがいかに人生にメリハリをつけ充実した人生になったことか。推薦で行ってはつまらない人生になった。 試験当日、電磁波工学ははっきり分かる問題だった。電磁波工学はほとんどの人は苦手なのでここで自分だけが点を稼げることが分かった。 これは自分の才能だった。小学校の時に算数で才能を開花させたが、理系が得意の人が集まった試験でこの段階にきても自分の才能は秀でることができた。 子供の頃秀才と言われても徐々に限界が来る人も多いが、自分の能力はまだ限界は達していないことが分かった。 通常は自分の能力の限界に気づくその時点で妥協することになるが、その後も結局どこまでいっても限界に気づかなかったので幸か不幸かどこまでの突っ走ることになった。 そして面接時に合格したことを告げられ恩師によく頑張ったと褒められた。人生最良の一日だった。院生になれた。実感は一日かけて実にゆっくりと湧いてきた。

[大学院生]
授業料全額免除かつ無利子の奨学金月84,000円の受給資格をとり国立名古屋工業大学大学院に進学。 電気情報工学専攻で、情報通信革命の時代と言われていたため学内で花形の情報通信分野の研究室へ所属する権利を受験の点数により獲得。 毎度毎度厳しい闘いをしてきたが今回は電磁波工学で点を稼いだことで勝った。 学校に通うと通帳にお金が増えていった。 大学院に入った直後は自分より頭の切れる人はいないということが直感的に分かった。 研究室では夜10時まで帰らせてくれないため時間を持て余した同僚と後輩にパソコンの使い方とプログラミング、Linuxを付きっ切りで教わる。 今日の自分があるのはこの二人のおかげである。 私は夜10時まで研究室にこもる閉塞感に耐え切れず、夕方には弟子を呼び車で名古屋をふらふらと観光した日も多かった。 田坂研究室石橋研究室と所属研究室を移りながら、 通信ネットワークの研究で世界で1位とランキングされることもあるスタンフォード大学が出したいい加減な論文を正し、 彼らより優れた手法を示して電子情報通信学会にて名古屋大学→早稲田大学→大阪大学でそれぞれ論文を発表する。 マサチューセッツ工科大学、カリフォルニア大学、オタワ大学からの論文をテリトリーにして分析していた。世界を相手に立ち向かって行ったつもりだった。 名古屋大学で論文発表直後、名古屋大学の助手からドクター(大学院博士後期課程)を薦められ大学院博士後期の受験に至る。 中学受験→高校受験→大学受験→大学院博士前期受験→大学院博士後期受験とフルに受験をすることになり、 塾や予備校に行ったことはないが高額な授業料を払って行っている人たちと戦ってきた。ずっと勝負の世界に身を置き学生としてできる学問をやり切った。 一度も逃げずに戦い切った。 塾に行くとはお金で試験に有利な情報を買うということだった。その情報を買えないのだから不利な状況でも勇敢に戦ってきたと後になってよく分かってきた。 しかし、大学院受験以降はそんなこと教える塾がないので誰もが独学しかなく、ここからが本当の勝負だったんだ。 早稲田大学では全国大会であり画期的な研究だと評された。 大阪大学での学会発表で京都大学の教授と質疑応答に対応するなどしているうちに、 長年の勉強の成果なのか自分の能力がレベルの高い世界でも通用することを知り自信を持つことになり、 どのレベルのことなら一流の科学技術の世界で通用するかの感覚をつかんだ。 この感覚が後に新しいことを世の中に発表するときの指標となった。 自分の論文が優秀な研究成果とされて学術雑誌ジャーナルに掲載されることになった。 私がやろうとすることに教授は毎度毎度「そんなことができるのか?」と言ってきた。どっちが難しいかを聞いてあえて難しい課題を選択していた。 既に電磁波工学の出来でかなりのインパクトを与えていたこともあり、 直属ではない教授が後輩たちの就職説明会で「君たちの先輩にこんな優秀な人がいました」と私を紹介していたり、 私が読んでいる技術書を教授は私に習って自分で買って勉強していて「僕は君を評価している」と言い出した。各教授があちこちで橋本君は優秀だと言い放っていたようだ。 この時気づいたことがある。教授という立場の人にも、あいつはすごいと言わせているところである。そう簡単にできるはずがない。 短期間で自分のすごさを人に分からせることで突然一目置かれ扱いが変わる。他人が私に有利に展開できるように動きだす。私が人を動かしているといってもいい。 マジックのようなものだ。このパターンは人生で何度も起きた。これが自分の身に着けてきたなんだと分かった。 後にもこの方法で仕事を有利に展開させた。 音楽制作で人の心をつかむとは何かを追求してきたが、人の心をつかむことは一瞬で可能だが技がいるのだった。 周りがお前ならノーベル賞を取れる能力があるとまで言い出していた。 また飛ぶ鳥を落とす勢がでていた。

研究者として大学に残りゆくゆくは教授になろうかと考えたが、まあ、周りの人間が君は大学教授に向いているなんておだてられていたからだが、所詮は名工大ここに居たってしょうがないと分かってきてしまう。 よその大学も考えたが、名古屋に大した大学がなんだな結局。自分の研究室での研究は名古屋大学では近いことをやっている研究室が存在していない。名古屋大学と名古屋工業大学では研究内容が重ならないようにしているみたいだった。 せいぜい中部地方でナンバー2の大学。生徒も教師も中途半端のプライドを持つ人が多くて面倒くさいだけ。 実態は学会では底辺の研究機関だった。名工大未満の大学は学会にめったに来ませんので常連の中で底辺だとすぐわかります。 名工大の教授は宇都宮大学と新潟大学の教授と和気あいあいやっている感じで、国立の通信総合研究所や理化学研究所、NTTの研究所や京大など一流の研究者からは相手にされていない情けない姿を見ます。 懇親会でうちの教授が学会で付き合いがある人どのくらいいるのかを私的に質問されたところに遭遇し違う分野で2人ぐらい名前を挙げていました。たった2人しか名前が出てきません。 名工大の教授ではレベルの高い研究者と付き合ってもらえていないようです。もちろん例外はいるかもしれません。 教授が学会発表したとき「それでいくら儲かるのですか100円ですか」などと馬鹿にした質問が飛んできたこともあります。 うちの教授はこの程度かなんて失望しました。 同時に発表が開催される場合、お客がよその会場に行っていてほとんどいないなか発表することもあります。 自分の所属する研究室のレベルが必然的に分かるようになりました。 だから相変わらず井の中の蛙にならぬように心がけて生きていた。名工大でどれだけ評価されても所詮はたいしたことない。そこは井の中だと疑わなければならない集団が間違った方向に行きやしないか、中学の時に経験した疑いなく従順に従う集団の恐ろしさと太平洋戦争時のいつまでも勝てると思っている日本人とを重ねて考えるようになっていた。 そして壮絶な戦いをする必要性に迫られた。 DENSOの会社説明会を1ケ月前に予約していたがその日の3日前に田坂教授が学会発表のリハーサルをすると言い出し会社説明会にいったら卒業させんと言われキャンセルさせられた。 再びDENSOの会社説明会を1ケ月後に予約した。するとまたその日の1日前に教授が学会発表のリハーサルをすると言い出してきてリハーサルに出ろと告げられた。見事な偶然である。 この時期私は研究成果を上げ連続で3回学会発表することになっていた。これではDENSOの会社説明会に行けないではないかと主張した。 「おまえいつからそんなに偉くなったんだ」と教授が言ってきた。生徒の都合は全く無視される。完全に攻撃できるポイントができた。 先輩が石橋教授に「お前はNTTのだれだれより無能だ」などと暴言を吐かれ、うな垂れて私たち後輩に話したこともあった。 田坂、石橋両教授の悪評は前から私の耳にまで届いていたので実態をすぐに把握できた。 誰も大学院まで来て路頭に迷いたくないので何をされても文句は言わない。 卒業の権限を握られている大学院生はせっせと学会で発表する論文を作り教授の業績は上がる構図だ。論文は必ず共著になるので教授たちの業績になる。 学生にとっては業績として使える機会はまずない。所属研究室の教授によって卒業できるかどうかが決まる世界。 パワハラだった。就職活動を封じられている。 この時この研究室の石橋助教授は論文の数が多いということで教授に昇進した。しょうもない世界の実態がだんだんわかってくる。 卒業した先輩たちに「この研究室は2年間耐えれば終わる」と教わった。日本の学校教育でみんな何を勉強してきたんだと衝撃を受けた。 卒業の権限を握られているせいで少々賢い人間ですらこうなる。命を取られまいと従っている世界。 日本の国立の機関でそんな世界があるのかと失望した。 高校を中退してもここまで這い上がれた希有な経験から、自分なら何度でも這い上がれる自信があった。 自分が成敗しなければ誰がやれるんだという気になった。 中学を出てから待ちわびていた機会がついに来たんだと感じた。 教授の側近として生活しているので、結果に誤りや不正、ねつ造があることが分かっていても、1つの研究を複数の論文に小出しにして論文の数を増やし業績を上げていることも知っていた。 実験結果をそれらしい結果になるようにして作為的に作ってくれとの指示を受け協力させられた。この行為をねつ造と呼ぶとすぐに分かり罪悪感に襲われた。 他の大学などの研究者はそのねつ造を気づくことができないほどマイナーな研究をしていて論文の数だけ増えていった。 この研究室から発表した8割りの論文で使っている実験用のベースとなるプログラムにバグがあり、それによって結果が変わることを同僚が発見し知ってもなおそのプログラムで出した結果で論文を作って発表し続けた。 1年に30~40も論文を発表していた。なお私の研究はシミュレーションなので自分が作ったプログラムだけを使用しそのプログラムは使っていないのでこの点は潔白である。 いい加減な論文を世の中に出して研究者を混乱させ無駄に時間を使わせるだけだ。こんなことでいいわけない。 教授と雇用契約を結んでいたが、予算がないと言いだし未だに賃金未払いのままである。 3万6000円だが15年も経っているので利息が相当になるはず。これを読んでいたら石橋教授よお支払いください。 架空の名目で学校からお金を請求していたことも私が20ケ所ぐらい印鑑を押したのだから間違いなく知っていた。元は税金だ。 私まで犯罪の片棒を担されている。学生にどれだけの罪をかぶせる気なんだという思いが募るようになってきた。 全ては卒業の権限を握れていることで教授は好き勝手にできているのだ。この縛りをほどけばやつらを倒せる。 「タイマンじゃごらー」、どこからともなく聞こえてきた。空耳だ。 何でもいいから一発大暴れしたいとうずうずしていたんだ。もともと持っている闘争心が目覚めた。 不可能を可能に変える男としては倒せるはずがないものを倒すことに情熱が湧いてくるのである。 全てに関して食って掛かり2人の教授に対して、学生部長や副学長など大ぜいを巻き込んで大いに暴れてやった。父親が学長を出せと要求したが副学長しか出てこない。 問題が次から次へと出てくるため徐々に形勢が私に有利になってきたが戦いは長引いた。 戦いの途中、私は大学院博士後期を名大の助手に薦められていたこともあり、その教授の研究室の大学院博士後期課程を受験した。大学院博士後期まで行く人はごくまれで試験は面接だけである。 この時までの研究実績と教授の私に対する評価からすれば落とす理由は学問以外の問題だと分かる。 私は教授は個人的な好みで合否を決めるのか実力で合否を決めるのかを見極めようとした。 そして、私を落とした。これで他人に証明することは困難であるが、学問を追求する国立の機関で学問とは関係なく権力を恣意的に利用していることが私としては確信的に思えることになった。 不正論文もそうだが国立大学の教授が学問をなめていることが分かった。 貧困から抜け出すには学問をするしかないという世界共通の認識があるぐらい学問は神聖なものでなければならない。その学問を汚す行いの罪は重い。 戦う価値が十分にある、いや戦わなくてはならないことを再認識した。 戦いは一年続いた。 全ての戦いは録音していなかったことが私の決定的な落ち度だった。密室でのやり取りは相手が誰であろうと必ず録音しなくてはだめだ、と皆さんに言いたい。 戦術の練りが甘かったことを反省している。上手くやればもっと速やかに終戦させられたはず。 名古屋弁護士会が本調査に入った。田坂教授が自分に弁護士を付けてきた。その教授を逃げ切らすべきなのか迷った。将棋でいえばもう詰んでいるはずだが認めない。そりゃそうだ、認めたらすべてを失うのだから。久しぶりに将棋を指した。 田坂教授が研究室の同僚にお前はどっちの味方かと尋問していたと聞いた。中立と答えたという。教授の見方はしなかった。 もともとプライドの高い連中だが終盤は弱気になり命乞いをしだしたので首を取る寸前で手を引いてやった。周りが手を引いてやれと言うから鞘に収めた。 確かに後で考えるとこれ以上人を追い込んで死なれても困る。私だったらとどめを刺すまでやってしまう。 具体的に田坂教授が示したものは、まず私がどれほど優秀であるかを示す資料を作ってきて親に渡していた。親に橋本君は本当に立派なものですよと何度も繰り返した。機嫌を取って静めようと考えたことがよくわかる。 そして、就職先に三菱電機を候補に挙げたこともあったので、とっくに時期は過ぎているが三菱電機の学校推薦枠を拡大するように頼みに行くと言い出した。強いことを言っていた時期が長かったので腰抜けになりすぎて過ぎて少々あきれた。 悪行が続き税金が盗まれ後輩が犠牲になることが気がかりだが、少し後におとなしくなったと同僚に聞いた。 平和が訪れたみたいだった。教授が腑抜けになり同僚が楽に卒業できたと喜んでいた。私がその研究室を去った後、偶然橋本という名前の人が同時に二人入った。ビビったろうに。 10人の教授が私の面倒を見るという特別措置を大学がとった。父親が集団リンチではないかと大学に殴り込みに行った。私の処遇について戦いはまだ続いていた。 あの時は本当は倒したかった。10ケ月後に学長が他の教授たちに対して人間のやることじゃないと言い残して去った。そして文部科学省が学校自体なくすという話になっていて日々新聞記事になっていた。 私が公開した内情を参考にしたかどうか私は知らないが、私一人で学校の一つや二つ潰せるんじゃないかと思った。 勝負に出るときは戦略をよっぽど緻密に練らなければだめなことが分かった。少しでも甘さがあればそこから逃げられる。お互い命がけなのだから。 このプロフィールは私の功績を記述しているつもりです。 教授という立場の人であっても自分の徳のため過去の発言を平気でなかったことにするなど、いかに汚い人間であるかを知った。 そもそも教授の悪評を知っていてなんでこの研究室に来たのか、それは将来につなげるための研究テーマだけで選んだわけでそれが進路として適切な選択だと信じていた。 楽に卒業するため教授の人柄で研究室を選ぶ人を腰抜けと思っていた。肩書を貰いに来たのではなく実力を付けに来たんだという筋を曲げたくなかった。 この研究室に所属したことを間違った選択だったとは今でも思っていない。ここで学んだことがその後の仕事につながっているし、戦ったことで誰よりも大きな勉強ができたと思う。

一方で、同時並行していた問題がある。私はDENSOの学校推薦枠を取得し会社に出向いたが、 金髪の女が出てきて交通費支給と書かれているのに「名工大は近いから当社の規定により交通費は支給されません」と言われしぶしぶ引き下がった。 金髪に対してもともと悪いイメージを持ていた。後で分かったがどうやらこの時代に金に近いぐらいに髪を染めることはよくあることだったらしいが、 夜10時に帰っているのでテレビも見ていないので世間を知らなかった。 私自身髪を染めたこともない。そのためDENSOの社員をチンピラだと思った。 しかし、DENSOの入社試験を受けようと思っているので、ここでいちゃもんを打つとその情報が残り採用に不利になると思ったから何も言えない。 この時点でDENSOはだめだと即決した。今後も言いたいことを何も言わずに生きていかなければならないのかと愕然としたからである。会社説明会では最後に感想を書いて提出する。 入社試験を受ければ相手はその情報も見ることができる。もう実施、入社試験の一部は始まっていた。 ちょうど昨年大企業が大規模なリストラをはじめ、この年は電機メーカーも自動車関連会社も新卒採用人数を例年の半数にすると新聞で報告されていた。 ここ数年を日本では就職氷河期と呼んでいるが、そんなもんじゃなくこの年に限り電機業界は大恐慌に匹敵した。 DENSOではたしか技術系大学院卒の採用人数が200人から100人になったため、 東大大学院から取っていけば名工大大学院を取る必要はないと見込んだのだろう。だから名工大には冷たいのだ。 それでも推薦枠だけは例年通り名工大に10人ぐらい出してきていた。DENSOは後で落とすことができるので余裕だ。 名工大は学生に対して学校推薦という企業との太いパイプがありますからと説明しているが実態がこの年急変していることにのんきな国家公務員では気が付けない。 私は石橋研究室に所属していて偶然にもこの年の就職担当教授は石橋教授が就任した。私の人生で偶然起こったことは私の使命と考えている。 石橋教授はこの年助教授から教授になったばかりだ。学校のこの人選にそもそもの問題があるのだろう。 石橋研究室の生徒なのでその頃毎日論文を書いていて石橋教授と毎日打ち合わせだった。そして自由応募で入社試験を受けたいと申し出ると石橋教授に「君自由応募やめなさい!」と恫喝された。 私は就職説明会で就職担当教授の石橋教授の説明は理解できているか大学院生全員のメールアドレスが分かるので自主的に全員にアンケートを採った。 その結果、半数以上が間違って認識していた。 学校推薦を取る場合は自由応募で入社試験を受けてはいけないと生徒に認識させていたがそれは間違いだった。 個人的に学校側(学生部長)に聞くと自由応募はしてもいいとのことだった。石橋教授に改めて聞くと「自由応募してもいいんだよ」と前言をひるがえした。 実に卑怯である。この時までの1ケ月間の自由応募する権利を侵害された。 本当は職業選択の自由もあることから自由応募を制限はできないのだった。石橋教授もそのことに気づいたのである。 しかし、生徒に間違って認識させているにも関わらず、就職説明会をやり直すなどの対処を学校がとらない。 大学院生はみんな学校推薦という太いパイプを頼りに缶詰めにされ学会発表の論文の作成に励んでいた。 石橋教授が自由応募をやめろと言った理由はよく理解できる。学校推薦で行くのだからウロチョロせずに研究に専念しろ、ちゃんと学校推薦という企業との太いパイプが用意されているのだから、じたばたするなと安心しろと言いたいのだ。 昨年までは大学院生は全員テレビで宣伝するほどの大企業に入れていたからこの態度なのだ。 しかしこの年に限り企業との太いパイプはなかったこれは責任問題です。 同僚たちは学校推薦で入社試験を受けに行ったがことごとく落ちて、自由応募での内定も持っていないので7月になっても就職先が決まらない。 学校推薦は受けるたびに会社の規模を小さくせざるを得ない。大企業はもう無理になった。みんなの人生がかかっている大事な問題なんだ。 田坂教授がこれまではうまく行っていたんだと今年の就職の情勢を知らない。国家公務員などさっさと辞めてくれ。 自由応募に行ってはいけないという趣旨を就職説明会でしてしまっているまま修正しなかった。 138人の人生を何だと思ているんだと思った。この争いも続いて半年後、就職担当教授の石橋教授が「どうやって償ったらいいか考えさせてくれ」と代表して活動していた私に言ってきた。 学校推薦の合否は全て石橋教授のもとに電話で届く。ことごとく落ちるせいでやっとことの重大さに気づいたのだ。 しかし、過ぎてしまった時間は戻せないことは私も分かるが、その後何の回答もしなかった。黙って逃げたのだ。人の道に反している。本当にそれでいいのか石橋教授よ。 きっとろくな死に方しない。うなされるぞ。この年は運が悪かったことは私も認める。それならそうともっと自由応募に行かなければならなかった。 みんなベストを尽くせずに進路を決めていったのだろう。中学の時経験した状況と全く同じだった。公務員のいい加減な仕事によってまた適材適所にならない人生となってしまう。 高校で既に経験したように適材適所にならないところに行った苦労を知っているから私は強く主張した。進路選択の大切さを誰よりも知っているつもりだった。 一年前、同じ研究室の大学院生の先輩が二人も三洋電機に就職したがたった2年で三洋電機はなくなった。ソニー一宮に行った後輩もいたが3年ぐらいで閉鎖された。 絶対に人を切らなことで有名だったパナソニックにその目的もあって学校推薦で内定を取ったのにその直後にパナソニックが史上初めてリストラをはじめ社長が会社存続の危機とテレビで説明していた。 いきなり人生設計が狂った人もいた。 シャープの推薦枠は3人、東芝も3人あったが2018年の現状からして就職してもいばらの道を歩んだろうに。 2002年でも冷静に判断できればこのぐらいのことを予測できる可能性はあった。 浮世離れした大学教授には所詮無理だ。私は厳しい世の中が来ると予測していたが教授たちは余裕こいていたので話が合わなかったのだ。 結果的に教授たちの予測ははずれだ。学校が過去の生徒全員に謝った方がいい。このまま知らん顔するのは人間のやることじゃない。 先見の明が全くない教授などたいした研究ができるはずがないことがこういったことからも証明できる。 当たり前のことだが生き残るためには常に先を的確に予測しなければならない。 私が大学院生全員に出したメールで自由応募に行ってもいいということが伝えられていればせめてもの救いだ。 学校側の発表と逆のことを一人の大学院生が言ったって簡単に信用させられることではないけど。学校側に言わせなければならなかったが、学校側のクソ公務員が動かなかった。 このプロフィールは私の功績を記述しているつもりです。 私はアホくさくなって就職活動は辞めた。わざわざ適材適所にならない合わない会社に行っても辞めるだけだと分かったからだ。

そんななかで会社説明会に行って分かったことがある。名札を付けさせられる。神戸大学大学院にヤツがタメ口で話しかけてきた。信州大学大学院のヤツが下手にでて話しかけてきた。 そこは大学院の名前で立ち位置が決まってくる序列の世界、身分制度だった。組織も集団も嫌いだったんだ俺はとはっきり分かった。 この頃はまだ車の免許も取っておらずそもそも車に全く興味がないのにどうしてDENSOにこだわったのか、それは名古屋にトヨタ系以外たいした会社がないからだ。 教授推薦によって東京電力、NECを薦められるものの断る。手の届くところに来てしまったものにはもう魅力はなかった。 いづれにしろサラリーマンでは自分の能力を最大限に発揮できないと感じた。もともとは会社というところに全く興味はなかった。 自分にはこの世界を変えるでかい仕事があると思っていた。サラリーマンとして埋もれてしまってはできないと感じた。 特定の会社のみが私の能力の恩恵を受けることになってしまうだけだ。 自分の能力を最も効率よく成果につなげ多くの人、特に弱い立場の人の利益となることをしなければならない、胸を張って生きられる結果を出さなければならない。 どこの会社も良くなかったと説明し学校推薦を辞退した。 結局どこへ行っても能力を他人に利用され、主導権を他人に握られ振り回されることが分かった。 会社に入っても内部告発に時間を費やすだけで無駄だ。 自分の能力を最大限に発揮できる環境に身を置くことが最も重要なことであると分かった。 最もベストな選択を時間ぎりぎりまで検討した。 そもそも長年の勉強はどこかのレールに乗るためだとは教わったことがない。人生は自らの力で築き上げるものだと聞いていた。 自分主導で1人でやっていくしかないという結論に達した。 結局、卒業も就職も辞めた。共に価値がないことがこれまでの経験でよくわかってしまった。 身分がなくなったのは2回目なので戸惑うことはなかった。 積み上げた学問と情熱だけが残った。 それ故に学問の本当の力を知ることがこれからできることに気づいた。なんのコネもツテもないゆえに。 一体長年何を勉強してきたのか、そもそも勉強は役に立つのか、自分は頭を鍛えてきて強くなったのかを知りたかった。 また、この社会で大切なのは表向きの立場ではなく中身であることを証明する必要があると考えていたのでちょうどいいと発想が切り替わった。 また斬新な挑戦ができる。本望ではないか。これが俺のやり方なんだと分かった。 全ては学びだった。

これまでの学生の時、幾度となく行く手を阻まれ、常に逆境の中で道なき道をこじ開け、その繰り返しは私を強くする厳しい修業だった。 人並外れて低予算で学生時代を終えた。それにも関わらず意思を貫き勝ち続けた。 これまでの人生で確実に言えることは「カネを払ったら負け」だ。 君はあえていばらの道を選んだのだと付き合いのない新谷教授に言われたこともあった。その通りだ。10人の教授から見張られていたので私は有名だった。 いばらの道になることが分かっていても信念を変えずに突き進んだ。そんなことで信念を曲げたら負けだ。 幼少期に音楽で感動したとき自分に心というものがあることを知った。その時から音楽に感動できる自分の心を宝にした。 この心を失いたくないから、心に偽らなかった。どんなに厳しい境遇に立たされても、心を守り抜いた。 この人生がどれほど正しいかを証明できるほどの大物になることが私のこれからの使命だと思った。

私は特殊な才能を持って生まれた。だからおかしな世の中を正すために戦い勝ち続ける責任がある。そして素晴らしい未来を切り開く役割がある。

[社会人]

(創生期)

大学院在籍中に研究の傍ら、依然音楽にも打ち込み60万円機材を買った店からもらったポスターを弟子に薦められヤフオクに売りに出したら60万になった。 一つも店で使ったカネがその店からもらったものを売ったら全部帰ってくるというミラクルなことが起きた。 それをきっかけに発展させ月15万の安定収入が得られていた。 人から雇われてではなく自力で稼ぐことができるということを知ったことが起業へと向かわせた。 サラリーマンになるしかないという認識の社会で、自分で何かをやって収入にまでたどり着くという経験は貴重なものだった。 ネット通販の可能性を確信しネット通販業界への道を独自で進むことに決める。 日本ではちょうどインターネットADSL常時接続サービスが都市から順に始まり、名古屋も早い段階で始まった。 それを利用して自宅サーバーを構築し世界からアクセスできる環境を自力で作った。 この頃、ネット通販といえば楽天だけだった。楽天の一人勝ちにより出店料も高いとき、 日本のネット通販の発展のため誰でも気軽にネットショップが持てるようなサービスの必要性を感じ「買場ショッピングモール」の開発、運営し、破格の値段で出店できるサービスを始める。 自分の技術でできることから順に始めただけだが、この行動力が道を切り開くことを知っていた。多くの人は始める前に理屈だけ並べるが結局実際にはやらないで終わる。 長年の受験戦争を終え闘争心を持て余しており、自分の能力なら楽天を相手に1人でも戦えると信じ、楽天会長を標的にしていた。 日本を自分が変えられると思っていた。この考えは今でも変わらない。自分の能力に対して自分が絶対的な信頼をしていた。 世間にはいろんな情報が飛び交う。そんなものに惑わされるようでは修業が足りない。自分を信じることができるまで学問をしたんだ俺は。 会社設立(資本金1円)により有限会社みらいネットサーブ代表取締役社長となる。 従来有限会社の資本金は300万円必要だったが1円からできるようになった直後のことだった。 ネットの世界は技術だけでお金を一切使わなくても可能であり、私ができる唯一の道だった。 人並外れて低予算で生きてきたことを誇りに思い自慢して生きていた。そのため「カネに頼ったら失敗する」という格言をこれまでの人生から無意識に掲げていた。 カネを使わない分、自分の足で動き研究する。それが力になることを知っていた。そのため技術も知識もノウハウも増えていった。そして新しいことがひらめき実行する。 「買場ショッピングモール」でパソコンと携帯が連動したネットショップシステムを他社に先駆けて、おそらく日本初で提供を開始したことで、 中部経済新聞に顔写真入りで社長として大々的に掲載され話題を集める。


従業員1000人のアイホンと対等に扱われ記事になった。その後も別のサービスで小さな記事でその新聞に載った。有限会社みらいネットサーブを世間に知らしめた。 その直後、その時売れていた若槻千夏が表紙の全国発売の雑誌に載せたい、無料ですとの連絡があり、許可をしたらオススメサイトのショッピング部門で第3位と評され掲載されていた。

この国で3位のネットショッピングサイトと扱われた。 発売日には書店とコンビニで発売されていることを自分も確認した。自分の作ったサイトが雑誌に載せてもらえるとは幸運だった。 「買場ショッピングモール」は好評となり、企業としての信用も高まっていき、私自身が起業家として認められ、どっかの起業家リストに載っていた。 東京の大手レンタルサーバー会社の社長があるシステムを作ってほしいと頼みに名古屋駅に来たので打ち合わせをした。300万円の仕事だったが契約書が相手に有利すぎるため断った。 IT社長のはしくれのはしくれになり本物のIT社長と話し合って、請負の仕事はやってはいけない。自発的なサービス展開だけが仕事だと分かった。 社会に出てすぐにこんなに良い扱われ方をされるのは技を使っているためと思われる。これが学問の成果なのか。

(確立期)

大手カタログ通販会社のセシールより商品リンクアフィリエイトで出店したいとの誘いが来た。そして、セシールが契約しているアフィリエイトASPリンクシェアと提携する。 バナー広告をブログやサイトに貼ることが主流のアフィリエイトでこのとき商品リンクを提供している企業はセシールとセコムの食だけであった。 要するに有限会社みらいネットサーブと買場ショッピングモールは有名企業であるセシールが相手にしてくれるレベルになっているということだった。 ショッピングモールをやっているので商品リストがもっと多く欲しかった。 会社を設立し企業として実績を積んできたこと、また大学院でインターネットを研究し技術的にも専門家であることを前面に出して、 マルイ、ニッセン、ショップチャンネル、JAL、ANA、ジャパネットたかた、大丸、高島屋など大手企業と交渉に当たり、 商品リストを貰えることになった。各企業はそれで売れるのなら橋本さんの言うとおりにするという態度だった。 後に役職が上がったとの感謝の報告も受けた。 商品リンクのリストを持っているのがほとんど自分だけあり、 プログラミングをやるアフィリエイターなどおらずライバル不在で載せるだけで売れていた。月400万円ぐらい売り上げていた。 リンクシェアでトップクラスのアフィリエイターのみ入れるリンクシェアクラブに入れてもらい、座談会にもよく出席した。 トップの成績の人が月2000万円売っていて、私はその中では末端だった。 私も企業の人には「カリスマアフィリエイターの方です」、「トップの方です」と紹介されていた。 アフィリエイトの世界でいとも簡単にトップの扱いをされていた。これが学問の成果なのか。 ここから少々本気を出した。学会で発表してきて得た感覚に従って創造した。 大阪での座談会でプログラミングをしない人でも商品リンクアフィリエイトで収入を得られるように、規約には違反しているものの、 ショッピングモールを丸ごと自分の収入源とできる特殊なシステムを持った「買場ショッピングモール2.0」の構想があり、 やってもいいかと問い合わせたら簡単に許可がおり製作し公開した。 六本木ヒルズや帝国ホテルでの立食パーティーに5年連続招待された。社長という肩書で世の中を渡ってIT業界で知名度を上げていった。 六本木ヒルズからこんな簡単に声がかかるとは思ってもみなかった。

このころ泳ぐことに凝りだし1年半、普段は1日500m、多いときは1kmクロールで泳いでいた。背泳ぎ、バタフライもマスターしていた。 この時、私自身の心技体が完成しつつあったことを後になって分かった。

(全盛期)

この頃になると高度な技術を使えるようになっていた。 これまでもそうだが発生する問題については朝目覚めた瞬間から考え始め、夜に意識がなくなく直前まで考えていた。 ただ頭の中で1時間考えると答えが分かることがしばしあった。考えるだけで解決することが快感だった。 考える時間さえあればいい方向展開できた。ただひたすら考える日々を送っていた。そして分かった。 子供の頃、箱に入った10円のアタリ付きのアメからどれがアタリなのかを論理的に見破った。 アタリはアタリだけまとめて製造されてハズレの中に混ぜているはずと推測。ハズレ軍とアタリ軍ではアメの袋の折り目が少しずれていることを発見した。 折り目が少数の物がアタリだ。10円で5個はもらっていた。そんなようなことを発見した。 商品リンクアフィリエイトの可能性を最大化するために販売網を拡大しインフラをフル稼働させると販売額も急激に拡大していった。 月収が100万円を超え沖縄のリゾートマンションを1年3ケ月事務所としていた。エメラルドグリーンの海を見ながら実質は沖縄で遊んでいるだけだった。 沖縄と名古屋を車で往復3回、フェリーで90万円も交通費に使い大航海の連続をした。 企業に沖縄から連絡し沖縄に住んでいることを知らしめ、商品リンクアフィリエイトは儲かることを見せつけた。 「沖縄に住んでるんですか、すごいですね」などの反響が来る。 商品リンクをまだ提供していない企業も順に提供を始めその企業の商品も売った。半年で2億5000万円私のサイトで売った。 商品リンクアフィリエイトを提供する企業が急激に増えていった。 こうやって商品リンクアフィリエイトの有効性を立証することに成功した。 沖縄のホテルで食事をしているとき、日本で勝ったと思った。 100回壁にぶち当たってきたがその壁を何とかして突破してきた。どこまで突破できるかが実力の差となる。 長年の勉強は問題を解決する訓練になっていて一つの学問の成果だった。 アフィリエイトで月収100万とこる強者をスーパーアフィリエイターといいそう呼ばれていた。 「買場ショッピングモール2.0」もオープンから3年後、軌道に乗り安定した物流を生み、当方としても純利益が800万円に達していた。 その時、普段付き合っているリンクシェアの親会社のアメリカのリンクシェアが楽天に買収された。当然日本のリンクシェアは楽天の子会社になった。 楽天を標的にしていたが、突然私にとってはこれまで全く関係なかった楽天とのコネクションができた。 「買場ショッピングモール2.0」をリンクシェア主催の開発コンテストに応募してくれとリンクシェアに誘われ、 六本木ヒルズグランドハイアット東京によばれ銀賞受賞し表彰式にスクリーンで300人の前で紹介された。 親会社である楽天会長も同席しており、私の活動を知らしめた。私と正面で向かい合って3mの距離で乾杯することとなり世の中を変えるために示唆しなければならない相手を目の前にした。 自分がこの世界でやらなければならない仕事があるんだ、だからこんな位置にいるんだと勝手に思った。そして楽天も出店費を下げ気軽にネットショップが持てるようにしたり、商品情報を全て公開するに至り多くの人が収入を得るチャンスを持てたりと私の要望を全てのんだことになった。 リンクシェア自身が作った規約に違反したシステムに賞を出すという異例の事態だった。商品リンクアフィリエイトを開拓した功績だと思う。 幾度となく壁をぶち破ってきた俺のやり方だった。 その後、リンクシェア以外のASPと提携のある各大手ECサイト運営企業へもアフィリエイトで全商品のリストを誰でも利用できるように公開するように働きかけ、 商品リンクアフィリエイトを日本独自で普及させることに貢献した。アメリカではこうはなっていない。 そして、日本の全ての通販商品はアフィリエイトとして誰でも代わりに売って利益を得られる仕組みが定着していった。

こうして日本ではネット通販は流行らないと当初言われていたがアフィリエイト市場と共に拡大し続けたのだった。

このときもこれまでもよく聞かれることが「何人でやっているのですか?」だった。会社にしているのでそこそこの規模でやっていると見せかけることができている。 凄いと見せかけることが重要だった。1人でやってて新聞にあんなに大きく載るとは誰も思うはずがない。アイホンと対等に掲載されていますが、アイホンは1000人を超える会社です。 その時代に重要なことをやれば1人で1000人と対等に扱われた。そして楽天を相手に1人で戦うことも可能となった。 学問をしっかり学んだ人間にのみ成せる技だ。学問には不可能がないことを学ぶ。なんとなく常識と思われることに流されている人間にはできない。 常識は学問ではない。

3年ぐらい日本で上位のアフィリエイターであったため、 実績による高まった発言権によって各企業への商品リンクの公開の要望やその他のイレギュラーな要望も次々と認められていった。 私の要望は何でも認められるようだった。その勢いでこの世界を変えてやるとの意気込みでシステムを次々と発表した。 この時期に私のシステムによって約12億円の物流を生んでいた。アフィリエイト最高月間販売額6000万円、過去に1位の人を大きく上回った。 アフィリエイトでの収入は4500万円程度であるが、私は皆さんの儲けのおこぼれを貰っているにすぎない。 カネを稼ぐにはまず他人に儲けさせたり徳させたりしなければならないという重要な事実が分かった。 六本木では天才プログラマーなどと言われていた。 この時期ももう何回目になるか飛ぶ鳥を落とす勢いとなっていた。

私のこれまでの行動は1つの理念をもとにしていた。誰でも安くネット通販を始められるように、誰でも収入をあげられるように、 企業の商品情報を誰でも活用できるようにというに、 つまり新しい物流システムであるネット通販から生まれる利益は商売していない人も含めて、なるべく多くの人のものでなければならないという理念に基づき活動したことで、 同調する人を得て動いてもらうことができ、思惑以上の展開が生まれた。 1人でやっていても、適切な理念によって他人に動いてもらう流れを作ることができた。 これは大学院時代にせっせと論文を作っていたのは卒業して路頭に迷いたくないためで、そこに縛られていただけであり、 教授に動かされていたけどそれは本当に人の心を動かしているわけではなく立場による権限で動かしているということに気づけたことによるものです。 さらに正義感を強く持つようになったことから、適切な理念を掲げることになった。

(衰退期)

日本でたった一つの分野だけど頂点にたった。開発したネット通販システムは世界のネット通販でも適用できるはずであると考え、世界進出への準備を進めていた。 多くの人が収入を得られるチャンスをもって、 強い権力者に理不尽な目にあってでもしがみ付かなければ生きていけない社会を変えるために。 しかし、スマホへの急激な移行など日本の市場の激変への対応に追われていた。世界進出の壁は高すぎた。 商品リンクアフィリエイトが普及し誰でも利用できるようになった結果、私のサイトの模倣が増えてしまった。 「買場ショッピングモール2.0」をさらに発展させた「買場ショッピングコミュニティ」もいくつかの賞をもらったが、 世の中をひっくり返しまくるほどの強い刺激がないと自分が満足できなくなっていた。 これまでの最高月収が200万円だったので300万円になることをしないと意味がないと思っていて、さらに新しいシステムを考案して公開していた。 半年でこのシステムの月収が60万円を超えてこのままいくかと思ったが、失速した。 これまで自分の収入を目的に仕事をしたことはなかった。それでは志が低く動機が弱くて面白くないからである。 本当は自分の収入を目的に行動したことはあるがうまく行ったためしがないので何もしていないことになっている。 また、楽天をライバルだと思って挑んできたが、楽天会長と会って以降ライバルを失って退屈していた 標的を誰にしたらいいか定まらず戦意喪失した。 プログラミングによってシステムを作るということは作家のような芸術家のようなもので、同じようなものを作り続けることは苦痛だった。 常に新しくこれまでより画期的であっと驚くものでなければ世に出す価値も見いだせない。 そんななかでも改めて自分の能力は無限である、いくらでも斬新なシステムを創造することができることに気づいた。 いざとなるとアイデアが次から次へとでてきて疲弊していた自分を救った。このとき初めて自分を天才だと思った。

(バカンス期)

学生のときよりやっていたネットオークション物品販売は安定しており純利益は1500万円になっていた。 雇用契約によって他人に自分の人生の時間を差し出すことなく生きてきたことは誇りだった。 コネもツテもないところからカネも使わずに学問と情熱だけを持って市営住宅の一室でプログラムを作って六本木ヒルズに呼ばれたり多くの人を巻き込んでいったことに満足していた。 沖縄では名古屋ナンバーの車で回りに回り、沖縄本島のことはほとんど分かった。 海洋博公園の南ゲートの前のマンションに住んでいたので美ら海水族館の年間パスポートを買ってオキちゃん劇場までを夕方の散歩コースにしていた。 備瀬では顔を突っ込むだけでチョウチョウウオなど大きい熱帯魚がわんさか。熱帯魚と一緒に泳いぐことにハマった時期もあった。 海外のコンドミニアムでのロングステイも計画していたがテロの影響で控えた。 名古屋に戻っても海の近くに住みたいと思うようになっていた。 インターネットの利点「インターネット回線があれば世界のどこにいても仕事ができる」というように、 インターネットは場所に依存しないことから、住みたい場所を選んで沖縄(1年)→内海→諏訪→湘南(4年)に住んだ。 海に面したところは夏気温が低く海風が気持ちいことを知ったので南知多町内海の千鳥ヶ浜の近くのマンションを借りた。 波の音、遠くで船の汽笛が聞こえ、また裏がちょっとした山でミンミン蝉の鳴き声。名古屋ではアブラゼミしか泣いていないが、ここは実に理想的な夏模様だった。正面は伊勢神宮。 海水浴客で毎日お祭り騒ぎ。いい思いをした。 夏は海の近くで3ケ月バカンスすることは恒例になった。 湘南の夏は江の島の片瀬海岸東浜西浜、茅ヶ崎のサザンビーチ茅ヶ崎で毎日海に入った。 サザンビーチ茅ヶ崎から江の島まで10kmを海沿いに海鳥と共に電動自転車で駆け巡っていた。 茅ヶ崎から江の島まで海沿いにサイクリングロードがあり、そこを通学路にしている高校生を見て衝撃を受けた。 自分はなんてつまらん所で生まれ育ってしまったんだと。江の島周辺を舞台にした映画が絶え間なく制作されていてた。 ここはそんなにすごいところなのか。いつの間にか江の島神社を信仰するようになった。弘法大師や源頼朝と同じように。 湘南の中心は江の島で、湘南に住んでいるものはみな江の島を拝んでいる。 家が海に近すぎて海風でいつもべたべただった。そんなことも気にならないほど胸が高鳴る日々だった。 沖縄では通常の生活費以外に200万円、湘南では500万円使っていたが、いずれもその直後にそれ以上にお金が戻ってくるという現象が起きていた。 思い起こせば学生時代60万円音楽機材に使った時もそうだった。貯金を使うと貯金はさらに増えていった。きっと不死身の金運を持っているに違いない。 商品リンクアフィリエイトを活用してできるシステムをぼちぼち作っていた。 そして時々思いだしてイライラする。大学院生の時とどめを刺せばよかったと。いくら虚勢を張っても外には出られない井の中で蛙に対して。 4年経ち湘南に永住しようと思ったが諸事情により名古屋に戻った。

(再戦期)

日本のネット通販に平穏が訪れたかと思ったのもつかの間、黒船Amazonが安く送料無料で売るため強すぎる状況になってきた。 これでは特に小規模は淘汰されてしまう。日本のネット通販にとっても新たな危機が始まっていた。 Amazonを標的に再び私が戦場に繰り出すときが来た。 自分一人でもAmazonと戦えると信じていた。

つづく

日本のネット通販をオープンなものにしようと尽力を注ぎ、商品リンクアフィリエイトを切り開いた一人の男の物語である。

奨学金返済完了。
視力:いまだに1.5、血液型B型、しし座、へび年。 愛車VOXY TRANS-X。趣味はピアノ、水泳、バカンス、ロングステイ。

[主な受賞歴]

2005年 大丸おせち販売コンテスト全国2位
2006年 大丸おせち販売コンテスト全国3位
2009年 Yahoo!オークション主催のサイト制作コンテストで入選、大丸おせち販売コンテスト全国5位
2010年 LinkShare Awards 2009 BentBox 開発コンテストにて銀賞受賞(六本木ヒルズグランドハイアット東京)
2010年 楽天トラベル アプリ開発コンテストにて最優秀賞ノミネート
2010月 リンクシェアBentBox開発アプリコンテスト受賞
2013年 リンクシェア主催「ファッション特集 売上実績・成長コンテスト」にて「売上実績賞3位」を受賞

[居住地]

~2007年7月 名古屋市北区上飯田在住。
2007年7~9月、名古屋市北区尾上に在住。
2008年1~3月、沖縄県名護市為又に在住。
2008年3月~2009年3月、沖縄県本部町山川(沖縄ハウスリゾート、ココナッツハイツ)に在住
(生活の範囲:名護市、本部町、エメラルドビーチ、備瀬、今帰仁村、ウッパマビーチ、海洋博公園、美ら海水族館)。
2010年3~5月、名古屋市北区平安に在住。
2010年6月~、名古屋市北区喜惣治に在住。
2011年7~9月、愛知県南知多町内海(真栄リゾートリーブル内海)に在住
(生活の範囲:内海、千鳥ヶ浜、豊浜、河和)。
2013年7~8月、長野県諏訪市豊田に在住(生活の範囲:諏訪、岡谷)。
2013年8~9月、神奈川県茅ヶ崎市柳島に在住。
2013年11月~2014年2月、神奈川県茅ヶ崎市浜見平に在住。
2014年2月~2017年9月、神奈川県藤沢市辻堂西海岸(辻堂団地)に在住。
(生活の範囲:平塚、茅ヶ崎、サザンビーチ茅ヶ崎、辻堂駅周辺、辻堂海岸、辻堂海浜公園、辻堂ジャンボプール、鵠沼海岸、片瀬海岸東浜西浜、江の島、藤沢駅周辺、鎌倉、鶴岡八幡宮、横浜、横須賀)。
2017年9月~、名古屋市北区西味鋺に在住。
2018年10月~、愛知県豊川市に別宅営業所設置。
(生活の範囲:新城市、豊川市、豊橋市、ラグーナテンボス、吉良ワイキキビーチ)

[これまで住んだ家の数]

名古屋市北区:6戸
神奈川県藤沢市:2戸
神奈川県茅ヶ崎市:2戸
愛知県南知多町:1戸
愛知県豊川市:1戸
長野県諏訪市:1戸
沖縄県名護市:1戸
沖縄県本部町:1戸
計:15戸

欠陥住宅、手抜き工事、住宅の問題点、風水に詳しくなる。

メディア掲載

2004年10月11日 中部経済新聞 名古屋経済に「買場」が掲載される



2004年12月5日 ソフトバンク誌『iモード情報サイト2000 vol.25』 に掲載され、
「買場ショッピングモール」がオススメサイトのショッピング部門で第3位にランクインする。



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